【新華社東京3月14日】「皆が彼女のことを『おばあちゃん』と呼んでいました。彼女のような人柄がよく、親切で寛大な人にはめったに出会えません。特に福島の悲惨な状況の中では」。東京を拠点にボランティア活動を行う藤本佳奈さんは悲しげに振り返る。
「セーブ南相馬プロジェクト」でボランティアをしている藤本さんが語るのは、夫を亡くしたある年配の女性。東日本大震災とその後に発生した津波や原発事故の被災者を支援するプロジェクトで知り合ったという。しかし「おばあちゃん」はもうこの世にいない。
藤本さんは「おばあちゃんのこぼれるような笑顔は、周りの人の気持ちを温めてくれました。貴重なアドバイスは、混乱した時代に立ち止まって考える時間を与えてくれました。彼女はいつも、自分と同じように生活を奪われた子供たちのために飴を用意していました」と語る。
セーブ南相馬プロジェクトは震災発生から7年間、仮設住宅暮らしを強いられている数千人に対し緊急物資を支援してきた。藤本さんのように東京を拠点とするボランティアグループは地元の支援組織とともに活動を続けていた。食品や新鮮な水、野菜といった必需品はすでに足りており、仮設住宅にいた人の多くは、政府の補助を受け通常の住宅へと移る者もいた。
宮城や岩手、福島など被害が最も大きかった地域の多くの人は、一時的に仮設住宅に入ったとしても、家族や仕事のつながりを通じ、他の地域で新しい暮らしを始めることが出来たが、それが出来ない年配の被災者にとって、日々の生活で感じる孤独は本当の意味での危機であり、彼らの将来に深刻な影を落としている。
社会学者の権野圭子氏は「多くの人にとって震災の記憶は永遠に消し去ることはできないが、一方で、普通の生活を送る今は、社会の一員との役割を十分に実感でき安心感を得ている」と述べ「しかし故郷を離れる金銭的余力もその意思もない高齢者にはそうした安心感を得られず、仮設住宅の暮らしは肉体と精神の両方もしくはいずれかで、自分の居場所を永久に失ったこと意味する」と指摘する。
権野氏は、孤独死を引き起こす病気がある訳ではなく数値化は難しいが、驚くほど多くの高齢者が必要なケアや社会との接点、共同体意識の欠如が原因で天寿を全う出来なかったと分析する。「おばあちゃん」のような87歳の老人が、夫と過ごした家や家業の農業、愛情で結ばれていた隣人や地域社会から離れる以外に選択肢はないと迫られ、突然収容所のような緊急避難施設に身を置かざるを得なくなる。その心理的影響は信じられないほど大きい。
昨年12月から今年の2月に行われた調査によると、震災後に地域社会の絆を回復出来たと答えた人はわずか4%で、最も被害が大きかった地域の15%の人は、ある程度の回復しか出来なかったと答えた。
権野氏は、これらの数字は氷山の一角にすぎないと語る。日本の高齢者は一般的に、他人の迷惑を考え、自らの状況について不満を言うよりは口を閉ざすことの方が多いとの見方を示し、高齢者の孤立や孤独死が見過ごされてきたことは、政府の最大の失策と語る。伴侶を亡くし、家族が移住し疎遠になり、自宅に戻る夢を打ち砕かれ、完全に孤立している高齢者。彼らに対する専門的なカウンセリングや精神衛生面でのケアがひどく欠如している事実は、政府にとって恥ずべきことに他ならない。権野氏は「本気で対策をとらなければ、自らは何の落ち度もない高齢者は文字通り「孤独」死するでしょう」と述べた。
忘れられたかに見える社会の不公正を統計は浮き彫りにする。震災で全てを失い、仮設住宅入居後に孤独死した人の数は昨年、過去最大となった。公式なデータによると、1人暮らしをしていた63人が昨年、仮設住宅などで孤独死した。うち52人は宮城県、11人は岩手県だった。昨年孤独死した人の数はおととしよりも27人増加した。震災後235人が孤独死し、80%以上は60歳以上の高齢者だった。
藤本さんは「おばあちゃんは他人を助けるために出来ることは全てしました。自分で買い物ができた頃に、買ってきた物には、近所の人に分けるダイコンやミカン、子供たちのスナック菓子がありました。それにも増して皆の心を和ましたのは『大丈夫だよ。私たちは大丈夫。ここに一緒にいるんだから』とでも言っているような笑顔でした」と語る。おばあちゃんが年をとって動けなくなるにつれて、会いに来る人が減ったのは、無慈悲で皮肉なことだと述べ「友人たちと遠く離れた場所にいて、近所の店に行く元気がない時は、誰とも交流せずに何週間も過ごすこともあった」と語った。
藤本さんによると、優れた慈善団体や支援組織は多くあり、包括的な環境を最も必要とする子供と高齢者のために、その環境を作り出そうと出来る限りのことをしているが、資金は常に不足し、全てのボランティアが地元に住んでいる訳でもないと支援の難しさを指摘する。
藤本さん自身は震災直後、東京から被災地に週1、2回通っていたが、交通費と自分の家族の都合でボランティア活動を縮小せざるを得なかった。その後、1週おきに被災地に行くようになったのは、おばあちゃんの様子が「変わった」からだ。おばあちゃんが「自分は孤独。友達と一緒にいたい。夫がこんな暮らしをする必要はないと言って笑顔で自分を待っている」などと言い始めたという。
藤本さんは、最後におばあちゃんと会った時、彼女がこれ以上孤独と戦えないと分かった。「地域社会の一員として生き生きと暮らしていたのに、忘れられた人になることは、彼女にとって耐えられないことであり、私にとっても悲しいことでした」と語り、自分と他の多くの人にとって大きな意味を持っていた1つの命を失ったことに対し静かに涙を流した。
藤本さんは、他のケアの方法をに探すべきだった。同世代の人を一緒に住まわせ、サポートする介護者ともうまく交流する方法があったはずと述べ「国がきちんと対応すべきでした」と語った。
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