金栗四三(かなぐり しそう)(写真はネットより)
一方、金栗は、苦労と挫折のなかで、日本マラソンをより強くするため、マラソン人口を増やさないといけないことを悟った。その後、彼はマラソン指導者として、日本マラソンの普及と発展のため、生涯にわたって地道な努力を重ねた。
金栗は、地元の熊本を拠点に中高年参加の「走老会」や「走ろう会」を設立し、競走としてのマラソンを、誰でも気軽に走れる健康マラソンに作り変え、それを一般市民にまで広げた。また、女性スポーツの大切さを説き、日本の女性スポーツの発展に大きく寄与した。さらに、若手ランナーを育成するため、一人で走るマラソンをリレーのかたちにし、「駅伝」の道を切り開いた。特に、金栗が企画した箱根駅伝は、日本国民の代表的なイベントとして発展してきたとともに、瀬古利彦、谷口浩美、佐藤悠基などのマラソンの名選手をたくさん生み出した。
日本は現在、12人の人がいれば、そのうちの1人はマラソンランナーというほどのマラソン大国である。この繁栄のなかに金栗は多大な貢献をしている。彼の改革努力は、日本マラソンの礎を築くことになり、彼の純粋さを失わない強靭な精神は、スポーツ分野を超え、日本の国境を超え、人類共通の宝物である。その後、世界マラソン界でも金栗の名は知り渡り、彼は「日本マラソンの父」と呼ばれるようになった。
1967年、75歳の金栗は「ストックホルムオリンピック開催55周年」を記念する式典の組織側から招待され、半世紀ぶりにストックホルムオリンピックのスタジアムを訪れた。すると、そこに彼のために用意された1本のゴールテープがある。観客からの大きな拍手のなかで、彼は20メートルほど走ってゴールをした。スタジアムには「ただいまゴールしたのは、ミスターカナグリ、ジャパン。タイムは54年8ヶ月6日5時間32分20秒3、これで第5回ストックホルム大会は、全日程を終了しました」とアナウンスが流れた。
54年8ヶ月6日5時間32分20秒3、これはまさに「日本マラソンの父」の人生そのものをあらわしている。たとえゴールが遠い先にあるとしても、挫けておらず、「体力、気力、努力」をそろえ、前向きに走ろう。
(作者/王篠卉 職員)
(この文章に表明された観点は作者個人のもので、新華網の立場を代表しません。著作権は新華網に属します。)
推薦記事: