金栗四三(かなぐり しそう)(写真はネットより)
数年前、日本に留学した大学の図書館から借りた本のなかで、「日本マラソンの父」とも呼ばれる金栗四三という方に出会った。彼の「54年8ヶ月6日5時間32分20秒3」のストーリーに大きく感激した。
金栗四三は1891年に日本の熊本県で生まれた。父親が43歳のときに誕生したので、四三と名付けられた。1911年、日本体育協会の創立とともに、オリンピック予選大会が行われた。マラソン種目では、20歳の金栗が見事に優勝し、日本代表として、翌年5月に開催された第5回ストックホルムオリンピックに出場し、世界のマラソン舞台に登場した最初の日本人となった。
しかし、優勝が大きく期待された金栗は、現地の酷暑とオーバーペースの中で、レースの25キロの過ぎたところで意識不明で倒れた。近所の農家に助けられたが、目を覚めたときは翌朝になった。
失意のまま帰国した金栗は、次回のオリンピックを目標にトレーニングを再開した。努力を続けた結果、当時の世界記録まで出し、誰もが今度こそ優勝間違いなしと期待した。ところが、第一回世界大戦の影響で、1916年開催予定のベルリンオリンピックが中止となった。彼は第7回アントワープオリンピック(1920年)と第8回パリオリンピック(1924年)まで活躍したが、成績は1920年が16位、1924年が途中棄権という良い成績ではなかった。
金栗の愛する言葉に「体力、気力、努力」がある。オリンピック制覇を目指して、体力、気力、努力をそろえて、16年以上挑戦し続けたものの、オリンピックの大舞台ではなぜか結果が出せなかった。当時のマスコミは金栗に失望するが、金栗は「十分練習して競技会に出場し、奮闘の後に負けたなら、決して不名誉ではない、むしろ賞賛すべきである」という言葉を残した。16年間オリンピック選手としての責任を果たすためには全力で頑張ってきた。それで結果が出せなかったら、それはもう違う次元の話だろう。