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万里の長城と清朝皇帝様の智恵
jp.xinhuanet.com | 発表時間 2016-06-14 13:50:25 | 新華網 | 編集: 王珊寧

   周知の通り、万里の長城は中国の戦国時代から始まりました。北の遊牧民族の攻め込みを防ぐために、北方三国の秦、趙、燕はそれぞれの国境に沿って、長い城壁を構築しました。秦の始皇帝は中国全土を統一してから、それぞれの城壁を繋がり、万里の長城を完成しました。現存の万里の長城は、中国の明王朝が、モンゴル人を北方の草原へ駆逐してから、遊牧民族の再来を防ぐために、あらためて建設したものです。

  だが、中国の王朝時代は清朝まで続きましたが、清朝は(紀元1636年から1912年まで)この276年間のうち、万里の長城はあまり話題にはなりませんでした。というのはモンゴル人の北からの攻め込みを防ぐために、清朝の皇帝様が万里の長城の代わりに、チベット仏教の役割を果たし、懐柔戦略を採用しましたからです。

  チベット仏教はラマ教とも呼ばれ、チベットから、モンゴルや満州まで伝わり、段々盛んとなりました。ルールが非常に厳しくて、一般庶民の場合、もし家族に男の子二人以上生まれましたら、その中の一人が、必ずお寺に出家し、僧侶になることは決まりました。三日坊主や生臭坊主など、一切に許されませんでした。一旦僧侶になれば、この一生涯、戦争に出て行かないばかりか、仕事をせず、結婚をせず……。このような懐柔戦略によって、自然にモンゴルの人口を減らしてしまいました。

  ですから、清朝の皇帝様は万里の長城を修繕せず、モンゴルでは沢山のチベット仏教をお寺を創ってあげました。二代目の康煕帝は北京より北へ250キロ離れたところに、夏の離宮の承徳を営造し、あそこでモンゴル諸王と定期的な面会によって、懐柔を目指しました。チベット仏教のお寺も、次から次へと承徳で出来上がった。

  万里の長城は王朝時代生まれましたが、盛んになったのは明王朝の時代でした。残念ながら、五代目の英宗帝が50万人の軍隊を指揮し、万里の長城の内側にある「土木堡」で、モンゴル軍に破れ、ご本人も捕虜となりました。明王朝の末ごろ、満州軍は「古北口」の長城を破れ、北京城まで攻め込んだこともあります。

  清王朝において、万里の長城を一度修復したことがありませんけれど、モンゴルの軍隊が一度もなく内陸(万里の長城の内側)に攻め込んだこともありません。これはある意味では、清朝皇帝様の智恵がある意味で役割を果たしたのではありませんか?(作者/湯文傑 評論家兼経営コンサルタント)

(この文章に表明された観点は作者個人のもので、新華網の立場を代表しません。著作権は新華網に属します。)

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万里の長城と清朝皇帝様の智恵

新華網日本語 2016-06-14 13:50:25

   周知の通り、万里の長城は中国の戦国時代から始まりました。北の遊牧民族の攻め込みを防ぐために、北方三国の秦、趙、燕はそれぞれの国境に沿って、長い城壁を構築しました。秦の始皇帝は中国全土を統一してから、それぞれの城壁を繋がり、万里の長城を完成しました。現存の万里の長城は、中国の明王朝が、モンゴル人を北方の草原へ駆逐してから、遊牧民族の再来を防ぐために、あらためて建設したものです。

  だが、中国の王朝時代は清朝まで続きましたが、清朝は(紀元1636年から1912年まで)この276年間のうち、万里の長城はあまり話題にはなりませんでした。というのはモンゴル人の北からの攻め込みを防ぐために、清朝の皇帝様が万里の長城の代わりに、チベット仏教の役割を果たし、懐柔戦略を採用しましたからです。

  チベット仏教はラマ教とも呼ばれ、チベットから、モンゴルや満州まで伝わり、段々盛んとなりました。ルールが非常に厳しくて、一般庶民の場合、もし家族に男の子二人以上生まれましたら、その中の一人が、必ずお寺に出家し、僧侶になることは決まりました。三日坊主や生臭坊主など、一切に許されませんでした。一旦僧侶になれば、この一生涯、戦争に出て行かないばかりか、仕事をせず、結婚をせず……。このような懐柔戦略によって、自然にモンゴルの人口を減らしてしまいました。

  ですから、清朝の皇帝様は万里の長城を修繕せず、モンゴルでは沢山のチベット仏教をお寺を創ってあげました。二代目の康煕帝は北京より北へ250キロ離れたところに、夏の離宮の承徳を営造し、あそこでモンゴル諸王と定期的な面会によって、懐柔を目指しました。チベット仏教のお寺も、次から次へと承徳で出来上がった。

  万里の長城は王朝時代生まれましたが、盛んになったのは明王朝の時代でした。残念ながら、五代目の英宗帝が50万人の軍隊を指揮し、万里の長城の内側にある「土木堡」で、モンゴル軍に破れ、ご本人も捕虜となりました。明王朝の末ごろ、満州軍は「古北口」の長城を破れ、北京城まで攻め込んだこともあります。

  清王朝において、万里の長城を一度修復したことがありませんけれど、モンゴルの軍隊が一度もなく内陸(万里の長城の内側)に攻め込んだこともありません。これはある意味では、清朝皇帝様の智恵がある意味で役割を果たしたのではありませんか?(作者/湯文傑 評論家兼経営コンサルタント)

(この文章に表明された観点は作者個人のもので、新華網の立場を代表しません。著作権は新華網に属します。)

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