8年に及ぶ苦難に満ちた抗日戦争で、中国人民は血を浴びて戦い、数多くの民族の英雄が誕生した。英雄たちは史書に記載されて名を留めておらず、我々は彼らの名前さえ知らないかもしれないが、名もない英雄たちは中国の抗日戦争の全面的勝利のために自らの貢献を果たした。中国社会科学院研究生院、日本問題専門家の呂耀東研究員は新華網の取材を受けた際に、あまり知られていない西北抗戦に関する3つの往事を語った。
西北抗戦の往事(一):『岢嵐謡』——「鬼子が三丈湾に来たら思い知らせてやる」
一つ目は山西省岢嵐県で起こったことで、抗日戦争中の岢嵐県は中国共産党の指導の下の八路軍晋綏抗日の主要根拠地で、山西省で臨時省委員会が設置された地でもある。1938年、中国の著名な詩人で、作詞家の公木が実際に起きた出来事をふまえて創作した長編の叙事詩『岢嵐謡』は、抗日戦争中に岢嵐県三丈湾村の農民、婁徳明さんが食品に毒薬を投じ、侵略した旧日本軍と一緒に命を絶った英雄としての史実を記述している。
「刻みタバコを一袋、もう一袋、さらに一袋吸う。突然、流星が光輝き、アイデアが脳裏に浮かぶ。ネズミ退治の薬はとても役に立つ。箱を開けて、一袋の亜ヒ酸を取り出す。よく混ぜて手で捏ね、飲料水の桶の中に入れ、酒の瓶に入れ、ゆう麺の容器に入れ、酢の器の中に入れる。ヘイ、鬼子が三丈湾に来たら思い知らせてやる。ヘイ、鬼子が三丈湾に来たら思い知らせてやる。」我々は『岢嵐謡』に記載されたこの農民の姓名を知ることはできないが、これらの詩句から、この往事を通じて我々は侵害を受けた何千、何万人という中国人民が奮起して侵略者と闘った様子を見ることができる。
西北抗戦の往事(二):「和尚連」——「出家はしたが、国は捨てない!」
和尚连(资料图片)
二つ目の歴史上の出来事は、中国四大仏教名山の筆頭である五台山で起こった。五台山は晋察冀抗日根拠地の最も早期の拠点である。1937年、晋察冀軍区が設立された後、軍隊は住む場所がなく、五台山の寺院に住むしかなかった。聶栄臻司令員は自ら寺院に赴き、中国共産党の宗教政策と抗日救国の網領を伝え、八路軍を寺院に進駐させた後、僧侶たちに友好的な態度を示し、文化財や古跡を大切にしたため、すべての僧侶はこれを目にして深く感動した。
僧侶も中国人であり、日本侵略者を憎んでいたのである。当時、大法師然秀は五台山の僧侶を代表して、「出家僧は慈悲深い。我々は出家はしたが、国は捨てない、国を守れなければ、仏教、寺院はいかに存続するか!日本に抵抗し、国を滅亡から救うことは、僧侶たちにもその責任がある!」と語った。
五台山の寺院は青年僧から構成される抗日自衛隊を設立した。僧侶たちはあらゆる方法で抗日に参加し、いろいろな手立てを考えて、日本軍に捕らわれた八路軍や群衆を救い出した。多くの僧は銃を持ち、勇敢に日本軍と戦って、現地の住民から「革命和尚」と称賛された。この後、晋察冀軍区はこれらの和尚を特別に組織して、一つの中隊を設立し、人々に「和尚連」と呼ばれた。
西北抗戦の往事(三):山西省西北部の抗日戦争の戦火における朗読の声
14年に及ぶ苦しい抗戦で、日本軍国主義の侵略者による焼殺と略奪は、中国人民の祖国防衛の民族精神を高ぶらせた。日本と血を浴びて戦う険しい環境の中で、祖国の文化を守り、国の人材を育成する活動も一刻たりとも停止しなかった。晋西北(山西省西北部)抗日根拠地で、ある抗日完小(小学校)の生徒たちは抗戦の前線と敵の背後を転々と移動した後、戦火の煙の中で聞こえた教科書を朗読する声は、中華民族のたゆまずに努力する最強の音を表現した。
1941年の秋から冬への移り変わりに、日本の中国侵略が激しくなった時期に、新しい抗日完小が晋西北の寧武県新堡郷芦草溝の八路軍の敵の背後にある抗日根拠地にひっそりと設立された。
この抗日完小は、寧武県を占領した日本の侵略者が奴隷化教育を強制的に推進するために設立した既存の「高小」3校に対抗したものだった。創立当初は、生徒は30人余りで、年齢はほとんどが15歳から19歳前後だった。教師たちの多くは山西省省立五中を卒業していた。国語、数学、歴史、地理、自然、政治などの授業が開設された。
先生と学生たちは寝食を共にし、教室と寮を同じくしており、先生は床に立ち、学生はオンドルに座り、真ん中の壁に一枚の黒板を配置して授業した。学校は自衛のためのチームを組織し、見張り番に立ち、通行許可証を調べることで、日本軍に加担した中国人や民族の裏切り者による攪乱や破壊行為を防いだ。また、「ゲリラ式」の学習生活に適応するために、毎日起きてからリュックの荷作りをし、朝の体操をして、時には夜間に緊急時に備えた集合訓練も行った。
1942年、日本軍は晋西北抗日根拠地に残酷な大「掃討」を行い、学校はひどく破壊され、すべての門や窓やつくえ、腰掛けは日本の侵略軍に粉々に打ち壊され、焼き払われた。先生と学生たちは隣接する岢嵐県の小さな山村、 閆家村に移って授業を受け続けるしかなかった。
1945年8月中旬、日本は無条件降伏し、抗戦に勝利した!学校の先生や年齢がやや高い学生は部隊機関に随って工作チームを編成し、忻崞など地区における旧日本軍の降伏受け入れの仕事を展開した。
晋西北の抗日完小が学校運営をした5年間の中で、ゲリラ戦を行うように学校所在地を6回変え、度重なる困難を克服し、粘り強く居を変えながら抗戦教育を堅持したことは、「天行建(てんこうけん)なり、君子はもって自ら 彊(つと)めて息(や)まず」の民族精神を体現した!晋西北の抗戦の戦火にあった抗日完小は、当時抗日救国の積極的な意義を持っていただけでなく、八路軍抗戦隊及び新中国の樹立のために学識や教養のある多くの新しい精鋭軍を育成した。
结び:
呂燿東は「これらの戦争の勝利は中国にとって容易ではなく、これは人民の勝利、全民族の勝利である。」と述べ、また、世界中の反ファシズム戦争のうち、中国の戦場はその名に恥じない東方の主戦場であり、この戦争の勝利は中華民族のものであるだけでなく、全世界の平和を愛する人々のものでもあると語る。歴史を振り返り、歴史の残酷さを感じる時、私たちは今日の平和の大切さをさらに感じ、少数の人にしか知られていないこれらの歴史上の出来事から、たゆまず努力する民族の決意と力を学ぶことができる。
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