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「傅山の追っかけ」を自称する日本人博士の堀川英嗣さん
jp.xinhuanet.com | 発表時間 2016-06-17 21:41:42 | 人民網日本語版 | 編集: 张一

日本語を教える堀川さん。

   「ついに『傅山(ふざん)全書』を手に入れた。皆さんご苦労様でした」。16日正午、中国で博士号を取得した堀川英嗣さん(38)は、微信(WeChat)のモーメンツにそう投稿し、メッセージと共に真新しい「傅山全書」20冊が彼の本棚にきれいに並べられた写真が添えられていた。「傅山全書」編集委員会のリストには彼の名前も入っている。中国新聞網が報じた。

   明代末期・清代初期の中国の道家の思想家で書道家、医学家でもある傅山は、山西省太原市出身で、顧炎武らと共に、清末から民国初年の歴史学者・梁啓超に「清初六大師」と称された人物。

   中国に来て14年になり、「傅山の追っかけ」を自称する堀川さんは、傅山の石碑を探すために、山西省の村や寺を訪れている。

   眼鏡をかけている堀川さんはいつも笑顔を絶やさず、書道が大好きで、中国文化に夢中な男性だ。太原市で留学していたため、堀川さんの中国語には山西省のなまりが染みついている。このほど、論文の答弁をクリアし、山西大学文学院古代文学の博士号を取得した。堀川さんは山西省で初めて博士号を取得した外国人となる。

   書道好きが高じて、日本の桜美林大学で中国語を専攻していた大学2年生の時、堀川さんは太原師範学院の書道学部で客員教授をしていた日本の著名書道家・今川鷗洞さんの付添いとして太原市を訪問した。3週間という短い期間だったが、堀川さんは太原市にとても良い印象を抱き、「ここでは先生が皆まるで父親のようで、学生ととても仲が良かった。それは、日本ではとっくになくなってしまったもの」と話す。

   太原師範学院書道学部の劉鎖祥・学部長などの勧めもあり、堀川さんは傅山の作品に初めて触れた。傅山の作品が好きになった理由については「よく分からない。一人の人間を好きになるのに理由がないのと同じ」と堀川さん。

   日本に帰国後、堀川さんはアルバイトをしてお金を貯め、2002年に大学を卒業すると反対する両親を説得して、太原師範学院の書道学部に自費留学した。学費は自分で貯めたお金と、両親の援助で補った。

   月曜から金曜までは授業に出席し、土曜日は宿題。日曜日になると傅山の石碑を探すために山西省の各地を訪ねた。03年の冬、同級生の張宇星さんの勧めで、堀川さんは車に3時間乗って、陽泉市盂県を訪問し、傅山の作品「鳩銭碑」と故居「畏熱堂」を目にした。

   盂県小横溝村関帝廟の「鳩銭碑」は、堀川さんが太原市以外の場所で初めて見た傅山の石碑だった。「とても興奮し、当時氷点下20度以下だったにもかかわらず、真っ暗になるまで石碑の拓本作りに明け暮れた」。また、別の村ではある人々にとても感動したことがあったという。その人々の先祖は傅山の親友で、傅山がその先祖の家を借りて住んでいたこともあったという。そして傅山が住んでいた「畏熱堂」は約400年もの間、その家族によって代々守り続けられてきたのだ。

   堀川さんと張さんは、そこで3日間寝泊まりし、大きな鍋で煮た麺を食べ、たくさんの親切な村民に出会った。その村での体験が、都会で育った堀川さんが一層中国が好きになるきっかけとなった。

   この十数年の間に、堀川さんは数十種の傅山の石碑の拓本や写真、傅山に関するさまざまな時期の書籍数百冊を収集した。そして、日本傅山研究会の理事になった堀川さんは、代表の今川さんと共に、日本で傅山の作品を紹介することに力を注いでいる。

   ここ数年、二人は日本で、「傅山書法名選集」や「傅山墨翰」など傅山関連の書籍4冊を出版した。また、中日文化交流を促進するため、日本人書道家による太原市での書道展開催を何度も企画してきた。そのような努力が実り、これまで、日本ではあまり注目されていなかった傅山は現在、王鐸と同じく、日本の書道界で注目を集める明・清代の代表的な書道家となっている。

   太原師範学院での学業を終えた堀川さんは太原市のある大学で日本語の教師になり、08年には山西大学文学院で、劉毓慶教授の指導の下、古代文学の修士課程で学び、最終的には博士号まで取得した。

   中国文化を探求する旅はまだ終わっていないため、堀川さんは太原市に定住することを決意。中国の古典文化書籍を読む中で、堀川さんは、「君子」に強い興味を抱いている。彼は「君子は、最も理想的な人格を身につけていなければならない。言葉で表現するのは難しく、儒教の経典を悟った先賢にしか説明できないだろう。ただ私も正々堂々と、そして楽しく生きていきたい。そして、人には優しく、自分には厳しく、先生や友人、学生から中国の伝統的な人德を学び、それを自分で実践し、二年後には『四十にして惑わず』というようになりたい」と語った。

 

(人民網日本語版)

 

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新華網日本語

「傅山の追っかけ」を自称する日本人博士の堀川英嗣さん

新華網日本語 2016-06-17 21:41:42

日本語を教える堀川さん。

   「ついに『傅山(ふざん)全書』を手に入れた。皆さんご苦労様でした」。16日正午、中国で博士号を取得した堀川英嗣さん(38)は、微信(WeChat)のモーメンツにそう投稿し、メッセージと共に真新しい「傅山全書」20冊が彼の本棚にきれいに並べられた写真が添えられていた。「傅山全書」編集委員会のリストには彼の名前も入っている。中国新聞網が報じた。

   明代末期・清代初期の中国の道家の思想家で書道家、医学家でもある傅山は、山西省太原市出身で、顧炎武らと共に、清末から民国初年の歴史学者・梁啓超に「清初六大師」と称された人物。

   中国に来て14年になり、「傅山の追っかけ」を自称する堀川さんは、傅山の石碑を探すために、山西省の村や寺を訪れている。

   眼鏡をかけている堀川さんはいつも笑顔を絶やさず、書道が大好きで、中国文化に夢中な男性だ。太原市で留学していたため、堀川さんの中国語には山西省のなまりが染みついている。このほど、論文の答弁をクリアし、山西大学文学院古代文学の博士号を取得した。堀川さんは山西省で初めて博士号を取得した外国人となる。

   書道好きが高じて、日本の桜美林大学で中国語を専攻していた大学2年生の時、堀川さんは太原師範学院の書道学部で客員教授をしていた日本の著名書道家・今川鷗洞さんの付添いとして太原市を訪問した。3週間という短い期間だったが、堀川さんは太原市にとても良い印象を抱き、「ここでは先生が皆まるで父親のようで、学生ととても仲が良かった。それは、日本ではとっくになくなってしまったもの」と話す。

   太原師範学院書道学部の劉鎖祥・学部長などの勧めもあり、堀川さんは傅山の作品に初めて触れた。傅山の作品が好きになった理由については「よく分からない。一人の人間を好きになるのに理由がないのと同じ」と堀川さん。

   日本に帰国後、堀川さんはアルバイトをしてお金を貯め、2002年に大学を卒業すると反対する両親を説得して、太原師範学院の書道学部に自費留学した。学費は自分で貯めたお金と、両親の援助で補った。

   月曜から金曜までは授業に出席し、土曜日は宿題。日曜日になると傅山の石碑を探すために山西省の各地を訪ねた。03年の冬、同級生の張宇星さんの勧めで、堀川さんは車に3時間乗って、陽泉市盂県を訪問し、傅山の作品「鳩銭碑」と故居「畏熱堂」を目にした。

   盂県小横溝村関帝廟の「鳩銭碑」は、堀川さんが太原市以外の場所で初めて見た傅山の石碑だった。「とても興奮し、当時氷点下20度以下だったにもかかわらず、真っ暗になるまで石碑の拓本作りに明け暮れた」。また、別の村ではある人々にとても感動したことがあったという。その人々の先祖は傅山の親友で、傅山がその先祖の家を借りて住んでいたこともあったという。そして傅山が住んでいた「畏熱堂」は約400年もの間、その家族によって代々守り続けられてきたのだ。

   堀川さんと張さんは、そこで3日間寝泊まりし、大きな鍋で煮た麺を食べ、たくさんの親切な村民に出会った。その村での体験が、都会で育った堀川さんが一層中国が好きになるきっかけとなった。

   この十数年の間に、堀川さんは数十種の傅山の石碑の拓本や写真、傅山に関するさまざまな時期の書籍数百冊を収集した。そして、日本傅山研究会の理事になった堀川さんは、代表の今川さんと共に、日本で傅山の作品を紹介することに力を注いでいる。

   ここ数年、二人は日本で、「傅山書法名選集」や「傅山墨翰」など傅山関連の書籍4冊を出版した。また、中日文化交流を促進するため、日本人書道家による太原市での書道展開催を何度も企画してきた。そのような努力が実り、これまで、日本ではあまり注目されていなかった傅山は現在、王鐸と同じく、日本の書道界で注目を集める明・清代の代表的な書道家となっている。

   太原師範学院での学業を終えた堀川さんは太原市のある大学で日本語の教師になり、08年には山西大学文学院で、劉毓慶教授の指導の下、古代文学の修士課程で学び、最終的には博士号まで取得した。

   中国文化を探求する旅はまだ終わっていないため、堀川さんは太原市に定住することを決意。中国の古典文化書籍を読む中で、堀川さんは、「君子」に強い興味を抱いている。彼は「君子は、最も理想的な人格を身につけていなければならない。言葉で表現するのは難しく、儒教の経典を悟った先賢にしか説明できないだろう。ただ私も正々堂々と、そして楽しく生きていきたい。そして、人には優しく、自分には厳しく、先生や友人、学生から中国の伝統的な人德を学び、それを自分で実践し、二年後には『四十にして惑わず』というようになりたい」と語った。

 

(人民網日本語版)

 

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