新華網北京9月12日(記者/肖石忠、曾涛、孫傑)1934年5月、中央蘇区北大門広昌を占領された後、中国共産党中央委員会は戦略的移転を検討し始めた。重大事項に関わるため、戦略的移転の準備活動は極少数の中央の指導者だけで内密に進められた。戦略的移転の関係事項の全体計画を行うために、中央委員会書記処は博古、李徳、周恩来で構成された「三人団」を設置した。政治と軍事は博古、李徳がそれぞれ担当し、周恩来は軍事計画の着実な実施と保障の準備を促すことに責任を負った。
人事配置は「核心的機密」に属する
長征の前に、通常は幹部の人事配置を中央組織局が決定したのではなかった。省委員会管理に属する幹部は、省委員会が決定し、党中央に報告した。党中央機関、政府、部隊、中国共産主義青年団、中華全国総工会などの組織は、各自の党団の責任者及び行政指導者が決定し、党中央委員会に報告する。
党中央、中央政府及び中国共産党中央革命軍事委員会の人員の人事配置は「核心的機密」に属し、残留名簿は少数の数人だけが知り得るもので、完全に「三人団」によって決定された。残留名簿の研究を行ったときに、博古と李徳は軍事幹部のみに周恩来の意見を求め、その他の方面については数字を報告しただけだった。
最終的な残留名簿
闘争を続けるために残された指導機関は「中央分局」と呼ばれた。最初に残留を考慮されたのは項英だった。項英は当時の中国共産党中央政治局委員、書記処書記、臨時中央政府副主席で、中国共産党中央革命軍事委員会主席で、党、政、軍での全面的な勤務経験があった。中国共産党蘇区中央分局書記、中央軍区司令員兼政治委員への項英の任命は慎重に検討されたことは明らかだった。
二番目に残留名簿に入れられた当時の江西軍区司令員は陳毅だった。陳毅は興国前線指揮作戦時に重傷を負い、病院で休養中だった。
瞿秋白の名前も残留名簿に記入されていた。この決定について、多くの人は意見が異なり、瞿秋白は中国共産党中央委員会の主要責任者だった。周恩来は博古などを呼び、瞿秋白を連れていくことを望んだが、博古はこれを拒んだ。
毛沢東は当初、長征名簿の中にいなかった
毛沢東は最初、長征名簿に名前がなかった。紅軍は移転への出発前に、毛沢東の警備兵はほかの指導者の警備兵が供給処に運ばれた物資を受領していたことを見た。彼らも毛沢東の物資も取りに行ったが、物資支給を担当する幹部は名簿に毛沢東の名前を見つけることができなかった。李徳にロシア語の翻訳を任せた伍修権は『私の経歴』に「彼らは当初、毛沢東同志を同行させない方針で、当時は中央政府の指導者の核心から外し、于都県へ調査研究に行かせた。」と書き綴っている。その後、周恩来、朱徳、張聞天などの懸命な働きかけによって、毛沢東が長征に参加できるようになった。
(新華社より)
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