新華網北京5月26日 フィリピンは2013年1月に『国連海洋法条約』附属書7に基づく強制仲裁を一方的に申し立て、南中国海で中国が共有する歴史的権利を否定したことは、その核心的な訴訟要請の1つだといえる。
歴史的権利とは、中国の南中国海諸島及び関係海域における長年の歴史的実践により形成・確立された航行、漁獲、行政管制などの関連の権利のことで、強固な歴史的事実を支えとし、確実で考証可能な歴史的証拠を有する。
一方、フィリピン側は訴訟目的を達成するため、恥知らずなたわごとを惜しげもなくでっち上げ、全く推敲に耐えられず、全く成立し得ない一連の歴史的な証拠を入念にでっち上げた。その手段を細かく分析すると、以下の特徴を備えている:
第一に、自己矛盾。領土主権問題は『条約』の解釈または適用の対象ではないが、フィリピン側はその仲裁請求に入念に装飾を施し、仲裁要請が島礁の主権とは無関係であるかのように見せかけようとした。しかし証拠を構成する際に、フィリピン側は悪だくみをひそかに混ぜ込み、南沙諸島を最も早く発見し、命名し、長期にわたり開発・利用し、行政管轄を持続的・平和的且つ有効的に行使したという中国の完璧な証拠の鎖を顧みず、管轄権を平和的・効果的に行使し続けてきたという完璧な証拠の鎖を顧みず、「中国の領土範囲の最南端は海南島を超えない」、「1933年になって初めて南中国海の島礁に対する領有権を提起した」、「中国は南中国海諸島に対して管轄を行使してこなかった」などとしばしば強調した。
第二に、一部だけを取り出し、自らの都合のいいように解釈する。フィリピン側は文書証拠を使用する際、全文の意図を何度も隠し、自国の立場を支持しうる一言半句のみを取り出した。例えばフィリピンが提起した「1937年の中国政府の文書は西沙(英語名パラセル)諸島が中国領土の最南端だと確認している」などだ。フィリピン側が採用した1937年の国防委員会秘書処の同文書の該当する段落は、実際には「現在の地理学者は中国国境の最南端を西沙諸島のトリトン島(即ち我が国の中建島)と言っているが、わが国の南方への発展の歴史を一考すると、この海南九島も中国の領有に属するようだ……」。実際に、今日まで伝わる歴史文献や中国宋代以来の地方誌、明代以来の地図では、すでに「石塘」「長沙」を中国国土の範囲に明確に組み入れている。民国時期に、中国政府は1934年から1935年にかけて我が国の南中国海諸島の地名を専門的に審査し、『南中国海の各島嶼図』を 編纂して出版し、南中国海諸島が中国の版図に属することを明らかに描いた。
第三に、故意に隠蔽する。大量の中国に有利な歴史的証拠を前に、フィリピンは選択的に失明した状態にある。例えば、1947年までに、中国は南中国海諸島に名称をつけておらず、中国は南中国海の航行時に、南沙群島近くの危険区域をわざと回避したと主張している。このため、フィリピン側は明、清以来、中国の漁民が南沙水域で捕獲作業を行い、南沙群島の主となっていた歴史的事実を故意に隠蔽した。だが、上述した事実は複数の版本のある『更路簿』で立証できる。「南中国海の危険区域」への航行指針として、『更路簿』は、西南沙島礁に漁に行く際の針路と航行距離を正確に記述している。西沙の伝統的な地名は30余り、南沙の伝統的な地名は70余りに言及し、一部の地名は西側諸国にも采用されている。例えば、Nam Yit(漁民は南乙、鴻庥島と呼ぶ)、Subi(漁民は丑未、渚碧礁と呼ぶ)、Sin Cowe(漁民は秤鈎、景宏島と呼ぶ)。これだけではなく、19世紀以降の外国文献も中国の漁民だけ島で生産・生活活動を行っていた歴史的事実を記録している。例えば、1868年の英国王立海軍の『中国海指南』、1923年の米国海軍水路測量局の『アジア・バンガード』、1940年の小倉卯之助日本前海軍中佐の『暴風の島』などだ。
第四に、一部をもって全体を論じ、誤った結論を引き出す。フィリピンは中国が南中国海諸島に対し主権を有することを認めた他国の地図はないとしている。だが、第二次世界大戦後の他国の多くの地図、百科全書、新聞雑誌などは中国が南中国海諸島の主権を有することを認めており、このうち、かつて中国南沙島礁を占領したフランスと日本も含まれている。1952年に岡崎勝男外務大臣が推奨した『標準世界地図集』と1956年にフランスで出版された『ラルース世界・政治経済地図集』などはいずれも南沙群島が中国に所属することを明確に注記している。さらには、ベトナムの地図も含まれる。例えば、1960年にベトナム人民軍総参謀部地図処が制作した『世界地図』、1972年にベトナム総理府測量・絵図局が制作した『世界地図集』がある。
第五に、巧みにすり替えて騙す。フィリピンは中国と「歴史」を争うために、ベトナムの黄沙と長沙を中国の西沙、南沙と混同し、フィリピン近海の海岸Panacotを中国の黄岩島と混同する見解を入念に選択している。また、ベトナムは最も早期に西沙に対して行政管轄を実施し、最も早期に西沙と南沙を版図に入れ、18世紀前半に黄岩島をフィリピンの地図に加えたと主張している。それに関する手段と過程について、韓振華、李金明、李孝聡などの中国の学者は早くから考証と反論を行っている。
第六に、「1つの中国」を分断。フィリピン側は法廷尋問の際に、「1949年から中華人民共和国政府のみが中国を代表している。したがって、1949年以前の中華民国政府の行為は中国に帰するが、1949年以降の台湾当局の活動は本質的に中国には帰さない」と主張した。フィリピン側は中比国交樹立のコミュニケにおける「1つの中国しかなく、台湾は中国の領土の不可分の一部であるという中国政府の立場を十分理解し、尊重する」との厳粛な承諾に公然と背き、1949年の中華人民共和国成立後、中国の台湾側の行為も中国に属すことを否定し、実質的に「1つの中国、1つの台湾」を主張した。また、「中国は1988年になって初めて南沙で実際のプレゼンスを築いた」などの論点を打ち出した。台湾側は1950年から短期間南沙・太平島から撤退したが、1956年にフィリピン側が「クロマ」事件を引き起こして,意図的に我が国の南沙諸島の一部島礁を侵略・占領したため、直ちに戻り、それ以降長年にわたり駐屯し、南沙海域で定期的に巡航し、民事開発を行っている。
第七に、個別の研究結果を客観的な事実に替える。フィリピンは東南アジア諸国、西側植民地国家が11世紀以前と植民地時代における南中国海の開発と管轄に果たした役割を論証する際に、有力な証拠を出せない。客観的事実を顧みず、少数の学者の見解を選択的に用い、これらの国々の役割を誇張することしかできなかった。だが、これによって南中国海を往来した各国の航海者による忠実な記録を帳消しにすることも、南中国海海底に沈む歴代中国の沈没船が残した痕跡をぬぐい去ることもできない。
フィリピン側がその虚言にどれほど華美な衣をつけ、中国政府と中国の人民が南中国海の歴史に刻んだ深い証拠を覆い隠し、世界の人々を騙そうとしても、中国が歴史的事実に基づき南中国海で有する主権と関連権益は抹消できない。真相は永遠に1つのみであり、正義は永遠に消えることがない。
(新華社より)
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