村民が「中国侵略日本軍細菌戦被害者特別写真展」を自費で開催
中国青年報の報道によると、78歳の浙江省義烏市崇山村の村民、王基旭さんとその孫までの三代が自費で開催する「中国侵略日本軍細菌戦被害者特別写真展」は、今年9月3日の開館から参観者が後を絶たない。
1942年10月、中国侵略日本軍は崇山村で細菌戦を展開し、伝染病を流行させ、村全域の1,200人余りの村民のうち、2カ月足らずで死亡者が408人に上った。これは村民日記に記録された当時の惨状だ。
日本軍が中国を侵略した時期の細菌戦の被害者である王基旭さんは日本を提訴した原告団のメンバーの一人。2007年8月10日、日本の東京最高裁判所は中国侵略日本軍に対する細菌戦国家賠償訴訟案を「受理しない」とする裁定を下した。
敗訴後、王基旭さんは数人の村民とともに、細菌戦被害者を一軒一軒、尋ねて調査を実施し、写真と実物などの証拠を収集し、資料を蓄積して「中国侵略日本軍細菌戦義烏展覧館」を設立した。
1940年から1942年9月初めにかけて、中国侵略日本軍は浙江省金華、衢州一帯で悲惨を極める細菌戦を実施した。悪の元凶は汚名高い731部隊ではなく、南京の栄1644部隊だった。
老兵の証言:悪魔の1644部隊の真相が50年後に判明
1996年7月31日、23人の平和を愛する日本の民間人で構成された日本軍細菌戦状況調査団が南京に到着し、名称を知る人が少ない旧日本軍の栄1644部隊が細菌戦を実施した状況について、調査しながら証拠を収集した。
調査団一行は南京中山東路305号にある南京軍区南京総医院を訪れて現地で証拠を集め、3人の元栄1644部隊の老兵がその場で証言し、50年余り埋もれていた秘密が暴き出された。
1644部隊の積み重なる罪行
1939年4月18日、日本の細菌戦の戦犯、石井四郎が自ら番号を名づけた南京栄1644部隊は、対外に「中支那防疫給水部」という名称で公表され、別名は「多摩部隊」だった。同部隊は中国侵略日本軍が中国で同時期に発足させた華北、華中及び華南の三大細菌部隊の一つだ。
南京師範大学歴史学科の教授で、南京大虐殺史研究会の顧問を務める経盛鴻教授は研究を通じて「栄第1644部隊」は南京で6年にわたり活動し、細菌戦研究と残忍な生体解剖実験を繰り返して実行し、無数の中国人を殺害したが、南京の地元住民はそのことをほとんど知らないことを発見した。南京に駐留した他の日本軍の部隊はこの部隊を「南京部隊の七不思議の一つ」と呼んでいた。
12月13日は三回目の南京大虐殺犠牲者国家公祭日だった。夜になると、各界からの人々が侵華日軍南京大屠殺遇难同胞記念館の祭場で手で赤い蝋燭を持ち、頭を下げて哀悼し、南京大虐殺で遭難した人々のために霊を慰め、また燭光祭イベントを行った。
米国・サンフランシスコの多くの民間団体は11日、「南京祭」活動を行い、1937年中国侵略日本軍南京大虐殺犠牲者を祭り、300人余りが出席した。>>詳細
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