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謎の人物「井真成」に迫る
jp.xinhuanet.com | 発表時間 2018-07-14 10:38:45 | 新華社 | 編集: 王珊寧

  【新華社西安7月14日】1200年以上前に「井真成」という名の日本人遣唐使が、唐の長安に滞在していたことを百文字余りで記録した一尺(約33センチ)余りの白い石でできた墓誌(死者の経歴を記して、一緒に墓に埋葬する石)がある。

  この墓誌の発見者で西北大学博物館の副研究館員、賈麦明氏は12日に「これは現在国内で発見された唯一の日本人遣唐使の墓誌であり、日本の国名を最も早くから記録したと学界で広く認められている文化財だ」と記者に語り、「しかし、この『井真成』が果たしてどんな人物なのか、中国と日本の学者たちはいまだに研究を続けている」と述べた。

  賈麦明氏は2004年に中国西安市の東部にある古美術市で、偶然この墓誌を発見した。墓誌のふたは青石でできており、篆書体(てんしょたい)で「贈尚衣奉御井府君墓誌之銘」(「尚衣奉御」は官位名)と刻まれている。賈氏は「唐代の墓誌に『贈』という文字がある場合、通常は特別な身分や特別な貢献をした者が亡くなった際に皇帝が官位を与えたことを意味する」と語った。

  墓誌のふたを持ち上げると、その下の墓誌は白い石でできており、 一辺が39・5センチメートルの正方形で、楷書体で百余りの文字が刻まれている。墓誌に刻まれた最初の言葉は「公姓井、字真成、国号日本(姓は井、字は真成、国号は日本である)」となっている。

  井真成は唐の開元年間に遣唐使の一員として長安を訪れ、そして開元二十二年(西暦734年)、36歳の時に思いがけず亡くなった。唐の皇帝、玄宗は彼に尚衣奉御の官職を与え、長安の万年県にある滻水のほとりに埋葬した。滻水は唐の長安の東に位置し、現在の西安市東部郊外にある滻河のことを指す。

  この地が埋葬場所に選ばれたのは、正に死者は異国に埋葬されたが故郷の方向に向けて葬られたことを示す証だと言える。

  賈麦明氏は「ただ、日本には『井』という苗字は存在しないため、これは井真成が中国にやってきた後に付けられたものだと思われる。また『真成』という名も日本名ではなく、中国名である可能性が極めて高い」と述べ、墓誌を手に入れた後、銘文の記載に基づいて井真成の埋葬地を探したが、結局収穫は得られなかったと語っている。

  この墓誌が発見されてから、多くの中国や日本の学者たちが「井真成」の境遇について調査や考証を行ってきた。しかし現在、考古学者や歴史学者は「井真成」に関わる別の文献や文化財の発見には至っておらず、1200年以上前に長安城で長い眠りについた遣唐使はより神秘的な存在となっている。

  井真成の墓誌が見つかったニュースは日本で大きな反響を呼び、この文化財はすでに日本で4回展示されている。西北大学博物館の劉豊副館長は、「中国の隣国日本が、いつから『日本』と呼ばれるようになったのか。これは日本の学者たちがその証拠を探し続けており、日本の人々も強い関心を寄せている問題だ」と述べ、「この墓誌に、石造文化財として初めて日本という国名が登場したことが、中日関係史の研究に貴重な資料を提供することになった」と語った。(記者/楊一苗)

 

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謎の人物「井真成」に迫る

新華網日本語 2018-07-14 10:38:45

  【新華社西安7月14日】1200年以上前に「井真成」という名の日本人遣唐使が、唐の長安に滞在していたことを百文字余りで記録した一尺(約33センチ)余りの白い石でできた墓誌(死者の経歴を記して、一緒に墓に埋葬する石)がある。

  この墓誌の発見者で西北大学博物館の副研究館員、賈麦明氏は12日に「これは現在国内で発見された唯一の日本人遣唐使の墓誌であり、日本の国名を最も早くから記録したと学界で広く認められている文化財だ」と記者に語り、「しかし、この『井真成』が果たしてどんな人物なのか、中国と日本の学者たちはいまだに研究を続けている」と述べた。

  賈麦明氏は2004年に中国西安市の東部にある古美術市で、偶然この墓誌を発見した。墓誌のふたは青石でできており、篆書体(てんしょたい)で「贈尚衣奉御井府君墓誌之銘」(「尚衣奉御」は官位名)と刻まれている。賈氏は「唐代の墓誌に『贈』という文字がある場合、通常は特別な身分や特別な貢献をした者が亡くなった際に皇帝が官位を与えたことを意味する」と語った。

  墓誌のふたを持ち上げると、その下の墓誌は白い石でできており、 一辺が39・5センチメートルの正方形で、楷書体で百余りの文字が刻まれている。墓誌に刻まれた最初の言葉は「公姓井、字真成、国号日本(姓は井、字は真成、国号は日本である)」となっている。

  井真成は唐の開元年間に遣唐使の一員として長安を訪れ、そして開元二十二年(西暦734年)、36歳の時に思いがけず亡くなった。唐の皇帝、玄宗は彼に尚衣奉御の官職を与え、長安の万年県にある滻水のほとりに埋葬した。滻水は唐の長安の東に位置し、現在の西安市東部郊外にある滻河のことを指す。

  この地が埋葬場所に選ばれたのは、正に死者は異国に埋葬されたが故郷の方向に向けて葬られたことを示す証だと言える。

  賈麦明氏は「ただ、日本には『井』という苗字は存在しないため、これは井真成が中国にやってきた後に付けられたものだと思われる。また『真成』という名も日本名ではなく、中国名である可能性が極めて高い」と述べ、墓誌を手に入れた後、銘文の記載に基づいて井真成の埋葬地を探したが、結局収穫は得られなかったと語っている。

  この墓誌が発見されてから、多くの中国や日本の学者たちが「井真成」の境遇について調査や考証を行ってきた。しかし現在、考古学者や歴史学者は「井真成」に関わる別の文献や文化財の発見には至っておらず、1200年以上前に長安城で長い眠りについた遣唐使はより神秘的な存在となっている。

  井真成の墓誌が見つかったニュースは日本で大きな反響を呼び、この文化財はすでに日本で4回展示されている。西北大学博物館の劉豊副館長は、「中国の隣国日本が、いつから『日本』と呼ばれるようになったのか。これは日本の学者たちがその証拠を探し続けており、日本の人々も強い関心を寄せている問題だ」と述べ、「この墓誌に、石造文化財として初めて日本という国名が登場したことが、中日関係史の研究に貴重な資料を提供することになった」と語った。(記者/楊一苗)

 

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