中国人が日本の各地を旅行していると、知らない文化に触れ新鮮な感じがすると同時に、なぜか親近感も覚える。そのような親近感はどこから来るのだろう?その答えは公の場なら至る所で「漢字」を目にするからだろう。(文:呂周聚。斉鲁晩報掲載)
日本の各主要都市の交通機関では、日本語のほか、英語と中国語の計3ヶ国語で駅名などが表示され、京都の路線バスの中では、中国語で次の停留所を放送してくれる。3ヶ国語で説明している旅行マップもあれば、さまざまな言語版の旅行マップもある。異国の地で、日本語もあまり話せない中国人観光客にとってはとても便利なサービスになっており、知らない場所に来た時に感じる恐怖に似た気持ちも吹き飛んでしまう。日本が、毎年1千万人を超える観光客が訪れる観光大国である理由は、旅行資源が豊富にあるだけでなく、言語の面で便利なサービスを提供しているからでもあるのは間違いない。
日本語は、中国語や英語などの要素を取り入れながら発展してきた言語で、それをベースに独自の特徴を形成してきたため、日本語は「混血」の言語とも言えるかもしれない。言語は文化を伝えるキャリヤーで、文化の核心部分であるとも言える。そのため、日本語に「混血性」があるため、日本の文化にも「混血性」があり、ある意味日本の文化は典型的な「混血」と言うことができる。誰でも知っているように、植物であっても、動物であっても、交雑すると新しい種ができ、新しくできた種はさまざまな面で元の種に勝っている。人種の違う二人が結婚し、子供を産むと、聡明な美男、美女が生まれることが多い。文化もそれと同じだ。日本は小さな島国で、いつの時代にも保守的な人が存在してきたものの、 ここぞという時には、開放的な態度で、外国の良いものを取り入れ自国の発展に役立てる姿勢(拿来主義)を示し、各時代の世界最先端の言語文化に学び、発展の波に乗ってきた。
日本に行ったことがある人なら誰でも、そのような「混血文化」に親近感を覚え、日本文化について少しでも知識がある人であれば、外国の良いものを取り入れて発展してきた日本人の精神に感心するものだ。そして、著名な思想家・魯迅(ろじん)が「拿来主義」 という記事を書いたことに納得するだろう。魯迅は当時、日本の「拿来主義」に啓発を受けたことに加えて、中国の社会が当時、閉鎖的、保守的であったため、感じるところがあり、そのことを記事にしようと思ったのだろう。今日、韓国人や日本人が「中国の伝統文化を自分のもののように扱っている」と見くびる中国人もいるが、そのような人は日本人や韓国人の背後にある「拿来主義」の精神が見えていない。実際には、中国は現在、「改革開放」に力を入れており、その本質は一種の「拿来主義」であるはずで、良いもので、活用できるのであれば、それを取り入れるべきだ。魯迅の言葉を借りれば、「牛肉を食べれば、牛になるわけではないが、強い体にすることはでき、力を得ることができる」。つまり、言語の面でも、文化の面でも、形を変えた保守主義の思想には注意しなければならないのだ。
(人民網日本語版)
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