新華網北京9月20日 14年に及ぶ苦しい抗戦で、日本軍国主義の侵略者による焼殺と略奪は、中国人民の祖国防衛の民族精神を高ぶらせた。日本と血を浴びて戦う険しい環境の中で、祖国の文化を守り、国の人材を育成する活動も一刻たりとも停止しなかった。晋西北(山西省西北部)抗日根拠地で、ある抗日完小(小学校)の生徒たちは抗戦の前線と敵の背後を転々と移動した後、戦火の煙の中で聞こえた教科書を朗読する声は、中華民族のたゆまずに努力する最強の音を表現した。
1941年の秋から冬への移り変わりに、日本の中国侵略が激しくなった時期に、新しい抗日完小が晋西北の寧武県新堡郷芦草溝の八路軍の敵の背後にある抗日根拠地にひっそりと設立された。
この抗日完小は、寧武県を占領した日本の侵略者が奴隷化教育を強制的に推進するために設立した既存の「高小」3校に対抗したものだった。創立当初は、生徒は30人余りで、年齢はほとんどが15歳から19歳前後だった。教師たちの多くは山西省省立五中を卒業していた。国語、数学、歴史、地理、自然、政治などの授業が開設された。
先生と学生たちは寝食を共にし、教室と寮を同じくしており、先生は床に立ち、学生はオンドルに座り、真ん中の壁に一枚の黒板を配置して授業した。学校は自衛のためのチームを組織し、見張り番に立ち、通行許可証を調べることで、日本軍に加担した中国人や民族の裏切り者による攪乱や破壊行為を防いだ。また、「ゲリラ式」の学習生活に適応するために、毎日起きてからリュックの荷作りをし、朝の体操をして、時には夜間に緊急時に備えた集合訓練も行った。
1942年、日本軍は晋西北抗日根拠地に残酷な大「掃討」を行い、学校はひどく破壊され、すべての門や窓やつくえ、腰掛けは日本の侵略軍に粉々に打ち壊され、焼き払われた。先生と学生たちは隣接する岢嵐県の小さな山村、 閆家村に移って授業を受け続けるしかなかった。
1945年8月中旬、日本は無条件降伏し、抗戦に勝利した!学校の先生や年齢がやや高い学生は部隊機関に随って工作チームを編成し、忻崞など地区における旧日本軍の降伏受け入れの仕事を展開した。
晋西北の抗日完小が学校運営をした5年間の中で、ゲリラ戦を行うように学校所在地を6回変え、度重なる困難を克服し、粘り強く居を変えながら抗戦教育を堅持したことは、「天行建(てんこうけん)なり、君子はもって自ら 彊(つと)めて息(や)まず」の民族精神を体現した!晋西北の抗戦の戦火にあった抗日完小は、当時抗日救国の積極的な意義を持っていただけでなく、八路軍抗戦隊及び新中国の樹立のために学識や教養のある多くの新しい精鋭軍を育成した。
(作者:呂耀東 中国社会科学院日本研究所外交研究室主任)
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