米国のシカゴの地下鉄には、重たく冷たい雰囲気があった。むき出しの鉄骨が至る所に突き出て、細やかな感情や装飾などは感じられない。工業発展の初期時代に地下鉄が生まれたことを思い出させるためにわざとやっているのかとさえ思う。
シカゴの地下鉄に乗ったのも出勤時だった。駅に滑り込んで来た列車の窓から見ると、車内にはかなりスペースがありそうだ。無理すれば馬でも通れそうな空き具合だ。これだけ空いていれば楽に乗れるだろうと安心していたが、ふと、ドア付近に乗客が異常にたまっているのに気付いた。まるで――一週間通りのない大腸のようである。最初は、ここで降りる人が先に出口に集まっているだけかとも思った。だが列車が停止しても、乗客らは一向に動こうとしない。門神としてあがめられる秦叔宝(唐代の将軍)が金髪になってドア付近に陣取っているようなもので、まったく隙を見せない。地下鉄を待っていた人々も心得た様子で待っている。私は、米国人通訳を促して乗車しようとしたが、次を待とうと逆にたしなめられた。
乗れるはずの電車が走り去っていくのをぼんやり見ているのは耐え難い。しかもそれが三度続いた。私が次は何が何でも乗ろうと言うのに対し、通訳は、無理をすれば他人のテリトリーを邪魔することになると反論する。そんなことを言っているうちに、大柄の黒人女性がドンとやって来て、ドア付近の邪魔者たちをもろともせず、車両の内側の人の少ない場所へと入り込み、窓の外でまだ待っている人々に笑いかけた。ほらあの人は乗れたじゃないかと私が言うと、通訳は、そんなことをすれば白い目で見られると言う。そう言われてみれば、車内でもプラットフォーム側でも人々はフンという顔をし、この女性はなんて教養がないのだと言いたげな様子であった。
私はわけがわからなかった。詰めれば乗れる列車に、なぜ乗ろうとしないのだ。通訳によると、これが米国のやり方で、自分のテリトリーをとにかく重視するのが流儀なのだという。自分のスペースは自分だけのもので、何人もこれは侵害できない。ドア付近の位置をもう取っているのだから、ここはもう自分のテリトリーだ。譲りたくなれば譲ってもいいが、それはあくまで自分の自由だ。譲りたくないという人のところを無理やり通る権限は誰にもない。
(チャイナネット)
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