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山西省「油耳山村惨事」の生存者、日本軍の暴行に遭った「寡婦村」を語る
jp.xinhuanet.com | 発表時間 2015-07-10 09:50:24 | 新華網日本語 | 編集: 谢艳

  【新華社太原7月10日】山西省洪洞県にある油耳山村はかつて太岳区八路軍の遊撃隊の根拠地の一つだった。村の向かい側の山には、小さなあずまやが立っていて、中には「油耳山惨事」と刻まれた記念碑があり、ここで起きた涙の歴史や日本の侵略者の暴行を人々に無言で語っている。

    1943年、日本の侵略軍は解放区に対し殘酷な掃討を行った。抗日の根拠地としての油耳山村は、売国奴の密告により、当年の10月15日と16日に日本の侵略軍による血の報復と非道な殺戮に遭った。

    惨事が起きた時、油耳山村の村人、李学桂さんはわずか2歳だった。あの時期の歴史は、李学桂さんがその母親と村の生存者の話から理解したものだ。

    15日未明、日本軍が突然村を包囲し、村人たちは夢からびっくりして目を覚まされた。

    李学桂さんの母親はこのように語った。当時敵は青壮年の男女全員を村の西のはずれまで護送した。その後すぐに日本の侵略軍は山頂の周りで機関銃を据えつけ、村民たちに八路軍の物資をどこに隠したか、抗日組織の工作者は誰かを指摘しろと言って脅した。

    しかし、口を開いた者は誰もいなかった。日本の侵略軍は焦り出し、15歳の男の子を引き出して銃剣で刺し殺した。

    村民たちは激怒した。「当時李殿臣という人が、『殺されても亡国の民にはならんぞ!日本帝国主義を打倒せよ!』と率先して高らかに叫びました。」と李学桂さんは語り、また村人たちは毅然と正義を貫したが、日本鬼子(リーベングイズ)は冷酷非情で、李殿臣さんを含む9名の同郷者がその場で刺し殺された。その後日本鬼子は更に15名の生きている村人を縄で縛り上げ、全員を曹生村まで無理やり連れ去り、翌日殺害したと語った。

    油耳山惨事で、計24人の同胞が殺され、そのうち油耳山村の村人は18人で、彼らのうち最も若い者は15歳、最も年をとった者は50歳過ぎだった。しかし八路軍が村に隠した物資は少しも減っていなかったという。

    惨事の発生後、油耳山村の青壮年男性はほとんど死傷し尽くしてしまい、親子で同時に殺された者もいれば、兄弟で共に犠牲になった者もいた。生きていた老人、幼児、女性、幼な子らは村内外の親戚友人の助けの下、犠牲者の死体をおおざっぱに埋め、次々に外へ出て避難し、人々は喪に服し、家々は戸が閉められ、村内は散らかったままで、油耳山は洪洞県で有名な「寡婦村」になった。

    

    (新華網日本語)

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