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私の中国人の岳父
jp.xinhuanet.com | 発表時間 2017-03-10 16:22:32 | 新華網 | 編集: 郭丹

   妻の父、つまり私の岳父は、娘婿の私にとって忘れられない人です。岳父は中国天津郊外の農民の子供で、10数歳の時に八路軍に参加したといいます。岳父は家が貧しかったため、教育を受けたことのない文盲でした。革命後、結婚しましたが、妻が癌で早く亡くしました。日本軍と戦ったこともあるそうですが、むしろ日本から来たユーモアに富んで単純な私を可愛がってくれました。

   岳父は皆から「変わり者(倔,<ジュエ>)」と言われていました。岳父は口数が少ないですから、どこかとっつきにくい印象はありました。その上、文盲で貧しかったですから、表現力にも限度があり、その無骨さにも同情できました。

   ところがこんなに変わり者の父でしたが、非常に優しい面もありました。夏、私たち夫婦が帰省したある日、私が腹痛をおこしてベッドに伏せっていたことがありました。すると岳父が横になっている私を心配そう覗き込み、「どうしたのか、何かいけないものでも食べたのか、大丈夫か?」と言ってくれました。単なる朴訥だけでなく、人の痛みを痛みとするそんな同情心がこの父にはあったのです。私は今はなき岳父を思い出すたびに、必ずこの時のことが思いやられます。

   毎年、夏休みが終わる頃、北京に帰らなければならない私たちは、岳父に挨拶しにいきました。私が「爸爸,我们回北京了。(お父さん、私たちはこれで北京に帰ります)」と言うと、岳父は「うん」と一言応えるだけでした。岳父は何事にも要求が少なく、簡単に満足する人でした。いわゆる「足るを知る」人でした。子供はどの子も皆、親孝行で、この父を大事にし、晩年の父は幸福だったと思います。

   2007年の6月、電話で上海にいた岳父と話をしました。この時岳父は血栓症で「腿疼!(足が痛い)」と私に訴えました。この時を最後にとうとう帰らぬ人になってしまいました。八路軍(当時の中国北方の共産党軍)の兵士として革命に参加し、解放後は寒冷の地に一人の工員として生き、中国の歴史とともに揺れ動いた岳父の波乱万丈の一生は、娘婿として十分に尊敬に値するものだったと思います。

   知識はなかったものの、その苦渋に満ちた経歴と重い人格は一家の主人として、十分尊敬されていました。何よりもかつての敵とも言える「日本人」の私を区別なく「一家人<イージァーレン>(家族)」として、温かく扱ってくれたこの岳父に私は心から感謝したいと思います。

 

(作者/金井五郎 元浙江工商大学日語学院客員教授)

   

(この文章に表明された観点は作者個人のもので、新華網の立場を代表しません。著作権は新華網に属します。)

 

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私の中国人の岳父

新華網日本語 2017-03-10 16:22:32

   妻の父、つまり私の岳父は、娘婿の私にとって忘れられない人です。岳父は中国天津郊外の農民の子供で、10数歳の時に八路軍に参加したといいます。岳父は家が貧しかったため、教育を受けたことのない文盲でした。革命後、結婚しましたが、妻が癌で早く亡くしました。日本軍と戦ったこともあるそうですが、むしろ日本から来たユーモアに富んで単純な私を可愛がってくれました。

   岳父は皆から「変わり者(倔,<ジュエ>)」と言われていました。岳父は口数が少ないですから、どこかとっつきにくい印象はありました。その上、文盲で貧しかったですから、表現力にも限度があり、その無骨さにも同情できました。

   ところがこんなに変わり者の父でしたが、非常に優しい面もありました。夏、私たち夫婦が帰省したある日、私が腹痛をおこしてベッドに伏せっていたことがありました。すると岳父が横になっている私を心配そう覗き込み、「どうしたのか、何かいけないものでも食べたのか、大丈夫か?」と言ってくれました。単なる朴訥だけでなく、人の痛みを痛みとするそんな同情心がこの父にはあったのです。私は今はなき岳父を思い出すたびに、必ずこの時のことが思いやられます。

   毎年、夏休みが終わる頃、北京に帰らなければならない私たちは、岳父に挨拶しにいきました。私が「爸爸,我们回北京了。(お父さん、私たちはこれで北京に帰ります)」と言うと、岳父は「うん」と一言応えるだけでした。岳父は何事にも要求が少なく、簡単に満足する人でした。いわゆる「足るを知る」人でした。子供はどの子も皆、親孝行で、この父を大事にし、晩年の父は幸福だったと思います。

   2007年の6月、電話で上海にいた岳父と話をしました。この時岳父は血栓症で「腿疼!(足が痛い)」と私に訴えました。この時を最後にとうとう帰らぬ人になってしまいました。八路軍(当時の中国北方の共産党軍)の兵士として革命に参加し、解放後は寒冷の地に一人の工員として生き、中国の歴史とともに揺れ動いた岳父の波乱万丈の一生は、娘婿として十分に尊敬に値するものだったと思います。

   知識はなかったものの、その苦渋に満ちた経歴と重い人格は一家の主人として、十分尊敬されていました。何よりもかつての敵とも言える「日本人」の私を区別なく「一家人<イージァーレン>(家族)」として、温かく扱ってくれたこの岳父に私は心から感謝したいと思います。

 

(作者/金井五郎 元浙江工商大学日語学院客員教授)

   

(この文章に表明された観点は作者個人のもので、新華網の立場を代表しません。著作権は新華網に属します。)

 

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