12日、東京の自宅で中国語の新聞を広げる山辺さん。(東京=新華社記者/冮冶)
【新華社東京8月20日】中国で人民解放軍に従軍した経験を持つ日本人女性、山辺悠喜子さん(91)は、中国侵略日本軍の暴虐行為を日本人に伝え続けて30年余りになる。どのような経緯があったのか、体験を語ってもらった。
山辺さんは10代の頃、父親の働く遼寧省本渓市に住んでいた。中国侵略日本軍統治下の偽満州国奉天省の本渓湖炭鉱で、1942年4月に起きたガス爆発事故も鮮明に覚えている。本渓市档案(公文書)局の資料によると、炭鉱労働者約1500人が亡くなり、世界の炭鉱産業史上、最も死者が多く、被害が深刻な事故となった。日本人31人を除き、犠牲者の大部分は中国人だった。
12日、山辺さんの東京の自宅。「当人、延命処置一切不要に願います。骨灰は可能なら、地に、水に帰してほしい。永遠に戦争のない平和を願う」と書かれた紙が貼られている。(東京=新華社記者/冮冶)
日本による中国侵略について、山辺さんはこの時はよく分かっていなかった。だが、45年8月15日を境に、敗戦とはどういうものかを身をもって知った。「明日も生き延びているかどうか、家族の誰にも分からない」という日々。父親が勤める会社の中国人がこっそり届けてくれた食料のおかげで、一家は辛うじて命をつないだ。そんな中、山辺さんは東北人民解放軍の前身となる東北民主連合軍の人員募集を知り「中国の人々に救ってもらった。今度は私が助けに行かなければ」と迷うことなく志願した。
山辺さんは「あの頃が私の人生で最も楽しい日々だった」と振り返り、自身が参加した行軍の行程図を示しながら、従軍経験を語った。東北三省(黒竜江・吉林・遼寧)から北京、さらに湖北省の漢口や広西チワン族自治区の桂林、南寧へと移動。簡単な医療看護や包帯の巻き方などを学んだだけで、人民解放軍に従って南北を転戦し、負傷者の救護に努めた。
12日、東京の自宅で新華社の取材を受ける山辺さん(左)。(東京=新華社記者/冮冶)
53年に日本に戻り、アルバイトをしながら暮らした。84年に退職すると、当時の部隊の指導員に連絡し、吉林省の長春に渡って白求恩医科大学(現在の吉林大学白求恩医学部)の日本語教師となった。90年、黒竜江省社会科学院が吉林や長春、ハルビンなどで実施した「東北陥落14年史」の実地調査に参加。この問題に長年関心を寄せてきた山辺さんは調査の過程で、中国侵略日本軍の犯罪行為の動かぬ証拠を目の当たりにし、被害者の証言を直接聞いた。
その後、多くの日本人にこれらの史実を知ってもらわなければ、せっかくの証言に申し訳が立たないと考え、中国侵略日本軍が中国で犯した極悪非道の大罪を明らかにして批判する活動に全力で取り組むようになった。こうして非凡な意義を持つ山辺さんの第二の人生が始まった。まずは「731部隊展全国実行委員会」を立ち上げ、その後、志を同じくする仲間と反戦を訴える民間団体「ABC企画委員会」も結成し、核兵器や細菌・毒ガス戦に反対する活動に力を注いでいる。
12日、東京の自宅で新華社の取材を受ける山辺さん。(東京=新華社記者/冮冶)
山辺さんと20年以上の付き合いがあるという明治学院大学の張宏波(ちょう・こうは)教授は「歴史の真相をより明確に調査するため、山辺さんは自宅を売却し、自費で60回以上も中国に行っている。『日本の中国侵略と毒ガス兵器』の翻訳に携わったほか、中国で『七三一部隊罪行鉄証』という本の出版にも関わった」と語った。
歴史の真実をより多くの日本人に知ってもらうためだけに、長い年月を費やしてきた山辺さん。自宅の壁には「当人、延命処置一切不要に願います。骨灰は可能なら、地に、水に帰してほしい。永遠に戦争のない平和を願う」と書かれた紙が貼られている。(記者/郭丹、冮冶、鄧敏)
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