
田邊中尉が残した「陣中日誌」の表紙。(8月1日撮影、北京=新華社記者/桂濤)
【新華社北京8月15日】1938年5月24日、当時の中国安徽省宿県付近の戦場は、辺り一面が黄砂に覆われた。旧日本軍の田邊中尉が残した日誌には「黄埃(こうあい)散漫として、風、蕭索(しょうさく)たり 雲桟(うんさん)、縈紆(えいう)にして、剣閣に登る」とある。日誌は「白楽天の『長恨歌』の一節、中国に来て初めて体感した」と続く。
長恨歌は、1200年以上前の唐の玄宗の悲しみをつづった詩だ。安史の乱で蜀に逃げた玄宗は、国の混乱と寵妃の死で悲嘆に暮れていた。だが、田邊中尉は旧日本軍が宿県を攻略した時にこの詩を記した。当時の宿県は中国侵略日本軍に占領されてから1週間もたっていない。田邊中尉のこの時の心境は80年余りもの間、琥珀(こはく)に包まれた昆虫のように日誌の黄ばんでもろくなった紙の上に保存されてきた。
この分厚い「陣中日誌」は、記者の友人が東京のオークションで入手した。表紙には「支那事変従軍 陣中日誌 人見部隊第一機関銃中隊 田邊中尉」と毛筆で書かれた端正な字が並ぶ。表紙を開くと「第一機関銃中隊第一小隊」などの漢字が書かれている。
戦史研究家の余戈(よ・か)氏は、「人見」を日本の敗戦時に関東軍第135師団長だった人見与一とみる。日本の事情に詳しい軍事史専門家の薩蘇(さつ・そ)氏によると、人見与一は中国軍の「宿敵」で「東北抗日義勇軍や東北抗日聯軍と戦った相手」だという。
日誌は万年筆の手書きで、昭和13(1938)年4月17日に始まり7月30日で終わっている。旧日本軍が当時の宿県を攻撃した時の全過程が、戦況の変化に至るまで30分刻みで克明に記されている。
安徽大学歴史学院の陸発春(りく・はつしゅん)教授は「これまで私たちが目にする機会が多かったのは国内で記された戦場史料だった。中国侵略日本軍の前線にいた作戦部隊の下士官による戦場日誌は珍しい」と話す。

「陣中日誌」に描かれた進軍図。(8月1日撮影、北京=新華社記者/桂濤)
日誌と詳細に描かれた作戦図には、旧日本軍の陣地構築の詳細や部隊の行軍ルート、隊員が戦死や負傷した経緯と場所まで詳しく書かれている。日本の視点から当時の戦闘を再現するとともに、中国侵略日本軍による戦争犯罪も明らかに示している。
だが、記者はそれよりも、淡々とした戦況の記録から旧日本軍将校の真情に触れたかった。
1938年5月19日、宿県陥落。旧日本軍の戦闘機による無差別爆撃と陥落後の虐殺により、街はこの世の地獄と化した。この日の日誌には「街に入ると、建物は燃え尽くされていた。時折ひどく痩せて背中の曲がった老人が歩いているのを見掛ける。道端には戦死した中国兵が横たわり、一面に血痕が広がっている」と記された。こうした光景を目の当たりにした田邊中尉は「私たちも悲しみと哀れみの気持ちを覚えずにいられなかった」と吐露している。
筑波学院大学で教壇に立った経験を持つ孟熙(もう・き)氏によると、第二次世界大戦中、日本は文科系の学生を「国に残しても役に立たない」として前線に送った。兵士となった学生たちは自らの思いを文学的な色彩に富んだ筆致で日記や日誌、手紙につづった。
田邊中尉が日誌であらわにした感情が、第二次大戦の罪を背負った高齢の旧日本兵たちを思い出させた。人生の終わりが近づいた今でも、かつて命がけで闘った中国の地が頻繁に夢に出てくるという。
作家の方軍(ほう・ぐん)氏は、こうした旧日本兵たちから話を聞き「私が出会った日本兵-ある中国人留学生の交遊録」という本にまとめた。日誌から浮かぶ田邊中尉の姿は、この中の2人に似ている。
まずは、山西省で左腕を失った鈴木さんという旧日本兵。1937年、攻め入った村で虐殺の最中に若い男から反撃された。鈴木さんの肩になたを振り下ろす男に、村の老人が「戦え!生きるか死ぬかだ!」と叫ぶ声が聞こえた。それから50年余り、鈴木さんは人生の終盤を迎えた。東京のオフィスには山西省の秋の収穫風景を描いた「山西風光」という大きな油絵が飾られている。鈴木さんは「亡くなった方々の魂が安らかに眠れるよう祈りたい。償うことで、私にも心の安らぎが訪れる」と方氏に当時の村に連れて行ってほしいと頼んだ。
もう1人は、90歳を超え病気で寝たきりとなった塩谷さん。かつて山東省の泰安で戦い、八路軍の兵士6人を生き埋めにしたという。大学在学中、徴兵を逃れるため左手の人差し指を包丁でたたき切ったが「銃を撃つのは右手の指だ」と言われ、結局召集された。中国侵略戦争を生き延びて日本に帰国した後は、謝罪のため何十回も中国に渡り、貯金を使い果たすまで寄付を続けた。
方氏は、出会った旧日本兵の多くが田邊中尉のように獣性と人間性のはざまでもがいていたと話す。高齢となった旧日本兵たちは、中国の元兵士たちの近況を聞きたがり、戦争を二度と繰り返してはならないという思いが強いという。
田邊中尉に関する情報を探し回ったが何も見つからず「人見部隊」についての情報もわずかしか得られなかった。歴史の中に埋もれていたこの旧日本兵は、巡り巡って中国にたどり着いた日誌によって、歴史の解剖台に乗せられた。(記者/桂濤)
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