劉老人村にある梨韻広場。広場内には116歳まで生きた「劉老人」こと劉彰の銅像もある。(5月2日撮影)
【新華社衡水7月10日】清代乾隆50年(1785年)、104歳になる「劉老人」こと劉彰は、北京と杭州を結ぶ京杭大運河を船で南下して故郷へ帰った。紫禁城で乾隆帝が催した「千叟宴」(せんそうえん、皇帝が千人の老人を宮殿に招いて開いた長寿を祝う宴)に参加した劉彰は、皇帝から五品官(清朝の官階の一つ)を賜った。運河沿いの梨の木の枝葉が次第に茂っていく様子は、劉彰に故郷がだんだん近付いていることを知らせているようだった。
その1年前の乾隆49年(1784年)、乾隆帝は6回目の南巡(江南地方の巡幸)を行い、運河に沿って南下。今の中国河北省衡水市阜城県霞口鎮付近で岸に上がって梨を見ていると、そこで偶然、劉彰と会った。乾隆帝は村民が仁徳に優れ、孝養の道を重んじ、村内に長寿の者が多くいることを知ると、にわかに喜び、老人の長寿を祝う「千叟宴」に劉彰を招待した。
劉彰は116歳でこの世を去ったと伝えられ、後世の人々がこの長寿老人を記念するため、村名を北劉荘から劉老人へと変えた。
劉老人村がある霞口鎮は昔からチュウゴクナシの郷と称えられ、栽培の歴史は春秋戦国時代(紀元前8世紀から3世紀ごろ)までさかのぼる。元・明代に大規模栽培が始まり、清代には栽培面積が1万6千ムー(約1067ヘクタール)を突破。現在の栽培面積は3万ムー(2千ヘクタール)を上回る。
劉老人村は現在、梨の栽培面積が2900ムー(約193ヘクタール)に達し、梨の栽培品種は20種類を超えている。村の「百年梨園」には樹齢100年以上の梨の木が5000本以上あり、農・林業の専門家から「梨の博物館」と称えられている。
同村党支部書記の劉連山氏は「改革解放後、村民の考え方がより柔軟になり、梨の木をますます重視するようになった」と説明。当時、村では「2ムー(約0・13ヘクタール)の梨を栽培すれば立派な農家だ」との言い方が広まり、農民たちの梨の栽培に対する意気が高まったと述べた。
同村の党支部と村民委員会は2013年、土地使用権の譲渡を強力に推進し始め、梨の木を分散栽培から統一管理へと改め、梨の密植栽培に向いた品種を導入し、栽培面積を拡大した。梨の品質を高めるため、園内では化学肥料や農薬、生長調節剤を使わず、トレーサビリティを活用した有機化学栽培モデルを採用した。また、栽培効率を引き上げるため、合作社(協同組合)は「百年梨」の商標を登録し、「霞口チュウゴクナシ」国家地理的表示の商標を申請。樹齢100年の梨の木を入念に管理、保護し、ブランド化の構築を行った。この措置により、チュウゴクナシの知名度と市場シェアが大幅に高まり、河北省農業博覧会では3年連続で「梨王」と評され、特に良質な梨は1個10元で販売された。
2015年、村は北京市のある企業と提携し、敷地面積1万ムー(約667ヘクタール)の現代農業モデルエリアを計画。村を含む周辺の土地約1万ムーの土地使用権を移し、観光や収穫、高付加価値加工が一体となったハイテクモデルエリアを作り上げた。年1回の梨の花フェスティバルは村の立派な代名詞となり、2018年には4万人を超える観光客がその名を慕って村を訪れた。
劉彰の物語は梨の木から始まったが、劉老人村における梨の木の物語はまだ終わっていない。長寿老人の劉彰が自ら村で梨の木を栽培していた当時には想像すらできなかったが、これらの梨の木々は現在、200年余りの時を経て、村で暮らす子孫たちに「富をもたらす」宝物の木々となっている。(記者/張碩)