新華網北京8月10日 (記者/翟清華、娄思佳、楊茹)1934年10月、中央蘇区は50万人の国民党軍の5度目の「包囲討伐」に遭い、極めて危険な境地に追い込まれた。だが、蒋介石が総攻撃を仕掛ける前夜に、中国共産党中央機関及び紅軍の5つの主力軍団は巧妙に包囲網を脱出し、蒋介石が入念に配置した三本の封鎖線を突破し、西に向かって長征の道を進軍した。
一本目の封鎖線は東南に安遠、信豊から、西北に赣州、南康、大余の間を走り、桃江を天然シールドとし、南北の長さは約120キロ、東西の幅は約50キロに達した。
二本目の封鎖線は広東省北部韶关の仁化県に設置された。国民党軍は南北の2つのルートに分かれ、北路は中央軍で、薛岳が呉奇偉、周渾元の2つの縦隊を率い、計4つの師が追撃した。南路は広東軍で、余漢謀が李振球、葉肇、李漢魂の3つの師を引率して行く手を遮った。
三本目の封鎖線を湖南省南部の衡阳にある郴州、宜章との間に設置した。
これまでの三本の封鎖線は国民党軍が長い期間にわたって設営しており、金属ほど強固ではないが、闘いに耐え得るものだった。だが、紅軍が比較的順調に突破できたのは何故なのか。 最も根本的な原因は実力だった。また、軽視できない要因は、中央紅軍の突撃の前に、広東の軍閥、国民党南昌行営南路軍の陳済棠総司令と抗日反蒋協定を締結したことだ。
事実上、紅軍が国民党の封鎖線を突破できた最も重要で最も根本的なことはやはり実力だった。広東軍と紅軍は旧敵だった。広東軍は紅軍との交戦で従来からも失敗は多く、紅軍の困難を恐れずに突き進む戦闘意欲に対して、広東軍は危険が去っても恐怖がいまだにおさまらないほどだった。軍閥は最も実質的なものだ。実力を備えていなければ、一分一秒で倒されてしまう。実力があってはじめて対話が必要とされ、利益があってはじめて対話する必要がある。
(新華社より)
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