爨底下村は、北京西部の郊外の門頭溝区斎堂鎮にある。「川底下村」とも表記されるが、もともとの名は「爨底下」である。明代の軍事要所「爨里安口」(現地では「爨頭」とも呼ばれた)の下に位置したことからこの名がついた。北京西部の斎堂西北の狭い谷の中部にあり、中華人民共和国の建国前は宛平県八区に属し、現在は斎堂鎮の管轄となっている。北京市街からは90km離れ、海抜は650m、村の面積は5.3平方km。清水河の流域である。温帯モンスーン気候に属し、年平均気温は10.1℃で、自然の植生に恵まれ、羊の飼育やミツバチの飼育に適している。
爨底下村の人々(戸主と子ども)はすべて韓姓である。言い伝えによれば、明代に、山西洪洞県の大エンジュの木の下から移民し、現在までに17代を重ね、新たな世代は「茂」を「字輩」(同世代の兄弟の名前で共有される文字)としている。現地の人々は、「爨」という文字は、「興」を冠とし、「林」がその下に続き、さらに「大」の下に「火」が燃えているというので、「大火が林を勢いよく燃やしている」、だから熱いので「寒」と同じ読みの「韓」を姓としているという言い伝えもある。
同村には現在、29世帯の93人が暮らしている。約18.7ヘクタールの土地に74軒の家が立ち並び、部屋の数は689室に達する。ほとんどは清代末期、いくつかは中華民国時代に建てられた「四合院」(中庭の四方を建物が囲む)、「三合院」(中庭の三方を建物が囲む)である。山を背にして建てられ、高低の差がはっきりしている。村の後ろ側を円心とし、南北を軸として扇型に広がっている。村の上と下とは長さ200m、高さは最高で20mの弧形の大きな壁によって隔てられ、村の前はさらに長さ170mのアーチ型の壁で囲まれ、村全体にまとまりを与えている。3本の道が上下を貫いている。洪水防止や山賊防止の機能もある。