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千年の歴史に思いを馳せて 河北隆尭の唐祖陵遺跡探訪
jp.xinhuanet.com | 発表時間 2018-05-31 09:28:28 | 新華社 | 編集: 张一

唐祖陵前に並ぶ石馬(せきば)。(新華社記者/曹国廠)

【新華社石家荘5月31日】中国河北省隆尭県の県城(県庁所在地)から南に6キロの魏荘鎮王尹村の北200メートルの田畑に、何対かの壊れた華表(宮殿や陵墓の前に立てられた柱)、人や馬などの石像が静かに佇んでいる。その周りでは野草を摘む7、8人の村民が見え、遠くでは一羽の鮮やかなキジが鳴き声を上げていた。

ここは1300年前の唐の高祖李淵の四代前の祖先、宣皇帝李熙と三代前の祖先、光皇帝李天賜の陵墓。2つの陵墓は一つの敷地に営まれているので、両者を合わせ「唐祖陵」と呼ぶ。地元の人は「石馬坑」と呼んでいる。

「数十年前には2つの大きな土山があったが、その後レンガ職人がレンガを焼くために土を崩してしまった。残ったのがこの石馬坑だ」と野草採りに来ていた70歳の老人は語る。「最近はよその省の人もよく見学に来る」とも語った。

「石馬坑」には現在、一対の華表、一対の翼のある馬の像、二対の御者と儀仗馬の像が存在する。三対の石の馬はいずれも頭部が失われているが、そのたくましい体つきから馬像の雄壮さが伝わってくる。

隆尭県の文学・歴史専門家、黄俊里氏によると、河北省文物(文化財)研究所と隆尭県文化保護所が合同でおこなった地下調査で、同遺跡が南北2030メートル、東西2204メートルで、総面積は4・47平方キロメートルであることが確認されたという。

河北省文物研究所の郭済橋副研究員によると、唐祖陵の構造は内垣と外垣、兆域(墓地の敷地)の境界線の盛土で構成されており、内垣は正方形で版築(土を突き固める方法)の壁が巡らされ、四隅にはL字型の台が築かれていたという。外垣は内垣の周囲に長方形の形で築かれ、同様に版築の壁で囲まれおり、さらに外側の兆域の囲いは正方形だったという。

隆尭唐祖陵は唐高宗の貞観20年(646年)に造営が始まり、高宗の麟徳元年(664年)に完成した。当時は王侯の格式に基づき作られたが、儀鳳2年(677年)に高宗が李熙に宣皇帝、李天賜に光皇帝の帝号をそれぞれ追贈したことから、陵墓も皇帝陵としての規模に拡張された。

黄俊里氏は、唐の皇帝陵の多くは陜西省内にあり、中原地区(河南省を中心とした華北平原)ではめったに見られないと語る。黄氏によると、隆尭唐祖陵は唐代の盛り土型皇帝陵の典型で、陵園や盛り土、地下宮殿、光業寺、副葬墓など、陵墓と付属文化財で構成されており、しかも二つの陵墓が隣り合い、同じ敷地にそれぞれ墓穴が掘られている。これは唐の皇帝陵の中でも唯一の例だという。

隆尭唐祖陵は2006年に「全国重点文物保護単位」(国の重要文化財)指定を受けた。河北省の考古学チームは2001~2015年の5年の歳月をかけ、同陵墓で地下調査を実施した。2017年には国家文物局が隆尭唐祖陵保護展示プロジェクトの実施を承認している。(記者/曹国廠)

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千年の歴史に思いを馳せて 河北隆尭の唐祖陵遺跡探訪

新華網日本語 2018-05-31 09:28:28

唐祖陵前に並ぶ石馬(せきば)。(新華社記者/曹国廠)

【新華社石家荘5月31日】中国河北省隆尭県の県城(県庁所在地)から南に6キロの魏荘鎮王尹村の北200メートルの田畑に、何対かの壊れた華表(宮殿や陵墓の前に立てられた柱)、人や馬などの石像が静かに佇んでいる。その周りでは野草を摘む7、8人の村民が見え、遠くでは一羽の鮮やかなキジが鳴き声を上げていた。

ここは1300年前の唐の高祖李淵の四代前の祖先、宣皇帝李熙と三代前の祖先、光皇帝李天賜の陵墓。2つの陵墓は一つの敷地に営まれているので、両者を合わせ「唐祖陵」と呼ぶ。地元の人は「石馬坑」と呼んでいる。

「数十年前には2つの大きな土山があったが、その後レンガ職人がレンガを焼くために土を崩してしまった。残ったのがこの石馬坑だ」と野草採りに来ていた70歳の老人は語る。「最近はよその省の人もよく見学に来る」とも語った。

「石馬坑」には現在、一対の華表、一対の翼のある馬の像、二対の御者と儀仗馬の像が存在する。三対の石の馬はいずれも頭部が失われているが、そのたくましい体つきから馬像の雄壮さが伝わってくる。

隆尭県の文学・歴史専門家、黄俊里氏によると、河北省文物(文化財)研究所と隆尭県文化保護所が合同でおこなった地下調査で、同遺跡が南北2030メートル、東西2204メートルで、総面積は4・47平方キロメートルであることが確認されたという。

河北省文物研究所の郭済橋副研究員によると、唐祖陵の構造は内垣と外垣、兆域(墓地の敷地)の境界線の盛土で構成されており、内垣は正方形で版築(土を突き固める方法)の壁が巡らされ、四隅にはL字型の台が築かれていたという。外垣は内垣の周囲に長方形の形で築かれ、同様に版築の壁で囲まれおり、さらに外側の兆域の囲いは正方形だったという。

隆尭唐祖陵は唐高宗の貞観20年(646年)に造営が始まり、高宗の麟徳元年(664年)に完成した。当時は王侯の格式に基づき作られたが、儀鳳2年(677年)に高宗が李熙に宣皇帝、李天賜に光皇帝の帝号をそれぞれ追贈したことから、陵墓も皇帝陵としての規模に拡張された。

黄俊里氏は、唐の皇帝陵の多くは陜西省内にあり、中原地区(河南省を中心とした華北平原)ではめったに見られないと語る。黄氏によると、隆尭唐祖陵は唐代の盛り土型皇帝陵の典型で、陵園や盛り土、地下宮殿、光業寺、副葬墓など、陵墓と付属文化財で構成されており、しかも二つの陵墓が隣り合い、同じ敷地にそれぞれ墓穴が掘られている。これは唐の皇帝陵の中でも唯一の例だという。

隆尭唐祖陵は2006年に「全国重点文物保護単位」(国の重要文化財)指定を受けた。河北省の考古学チームは2001~2015年の5年の歳月をかけ、同陵墓で地下調査を実施した。2017年には国家文物局が隆尭唐祖陵保護展示プロジェクトの実施を承認している。(記者/曹国廠)

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