1941年10月、新泰県で、小隊は「催涙ガス2本を使用し、放火または銃殺などで八路軍兵士および農民150人を虐殺した。また、村から出てきた3人の農民を私が射殺した。村に入った私は、井戸の中に隠れていた農民5人を発見、仲間と重さ60キロの石と手榴弾一つを投げ込み殺した」。
1942年8月、陽谷県で、仲間二人と「30歳前後の女性一人」を侮辱した上、殺害した。