1943年9月、宜昌にある黄龍寺の東南部で、1人の中国人(30歳・男、逮捕情況不明)の「鼻から麻酔薬を注入し、山川と酒井は胸部と腹部を解剖してから太腿を切断した。私もその中国人の殺害に関与した」。
1944年5月、荊門県の県都で、「捕虜となった1人の中国抗日軍人(35歳・男)を第2中隊が駐屯した庭の十字架に縛り目隠しをし、教官に対し、新兵40人を走らせ、その胸部と腹部をまるで蜂の巣のようになるまで連続で刺させた後、高橋勇曹長に命じて首を切って殺害させた」。
1945年3月30日、南漳県で部下に命令し「抗日部隊の負傷者4人(将校1人、下士官3人)、それに同行していた衛生兵1人および搬送中の民間人6人を射殺させた」。
1945年4月、南漳県県都の東で「避難中の中国民間人(60歳・男)1人を見つけ、奥原ほか1人に命じてその首を切って殺害させた」。
(新華網日本語)
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