経験者、ロ・日両軍による東北の町での激戦を語る

Jp.xinhuanet.com | 発表時間 2015-05-04 09:12:18 | 編集: 王珊寧
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   今年82歳になる冀耀宗さんは当時の家が穆棱鎮にあり、その時彼は12歳だった。冀耀宗さんは次のように語った。日本軍の飛行機が来て、あちこちを爆撃した。爆撃が止むと、町の大橋はもう壊れていた。ソ連軍は物資輸送のために、夜通し木材で橋を修築して、爆撃の翌日また橋を渡る時にはもう木の橋になっていた。今のあの橋は政府が後になって再修築したものだが、日本軍の爆破した橋の一部が今でも河の中に突き立っている。

   今年78歳になる張克さんは当時8歳で、両軍の交戦前に、家族が張克さんを連れて牡丹江の西の郊外に身を隠していた。この激戦で張克さんが最も印象深かったのは、交戦から5ヶ月ほどたって、張克さんの父親が彼を連れて当時の樺林村まで向かう際、鉄嶺川の橋まで来ると、河岸の両側の雪の上には死体がまだあちこちで見られたことだったという。

   張克さんはその後この時代の歴史について深く研究したという。張克さんは、次のように述べている。牡丹江は当時日本軍の三番目の防御線で、ソ連軍は8月16日に牡丹江に入っている。綏芬河から牡丹江まで直線距離で100キロ余りあり、ソ連軍は牡丹江までに7日間費やしたことから、戦争の激しさを知ることができる。

   火焼山付近の農民によると、当時ソ連軍の戦車や大砲がみな使われて、火焼山となったというのは、両軍の交戦が激しく、猛烈な砲火が山の植物に引火し、大火が何日に渡っても消えず、山全体が火で焼かれたようになった。

   (新華網日本語)

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