14日、白山神社境内にある孫文先生座石。(東京=新華社記者/藍建中)
【新華社東京2月20日】中国民主革命の偉大な先駆者、孫中山(孫文)が初めて日本を訪れたのは1895年。その後の訪問は十数回に及び、10年前後の滞在で多くの日本人から知遇を得た。日本は彼の革命人生において重要な位置を占め、東京にも多くの足跡を残した。
東京都文京区白山にある白山神社の境内に、孫中山のブロンズ製肖像レリーフをはめ込んだ石碑がある。上部に「孫文先生座石」と刻まれ、石碑の下に孫中山が腰を掛けたとされる少し黒ずんだ長方形の石がある。銘文には、1910年5月中旬のある晩、白山神社近くの宮崎滔天宅に住んでいた孫中山が滔天とこの石に腰掛け、中国の未来と革命について語り合っていた時、空に光り輝く流星が現れ、それを見た孫中山は祖国の革命を必ず成功させると誓ったと記されている。
14日、白山神社境内にある孫文先生座石。(東京=新華社記者/藍建中)
日本初の洋風公園、日比谷公園の木立の中にたたずむレストラン日比谷松本楼。孫中山および彼を支援した梅屋庄吉と深い縁がある。創業者の小坂梅吉は、庄吉と姻戚関係にあり、孫中山と庄吉は当時、店の常連客だった。孫中山はここで多くの日本人と会った。店には孫中山夫人の宋慶齢(そう・けいれい)が弾いたピアノが展示されている。孫中山と宋慶齢は1915年、東京・大久保の庄吉邸で結婚式を挙げた。音楽好きの宋慶齢はこのピアノを何度も弾き、歌を歌ったという。
白金台にある八芳園の料亭「壺中庵(こちゅうあん)」にも滞在したことがある。当時は実業家、久原房之助の別邸で、部屋には不測の事態に備えて、地下道に通じる隠し戸が設けられており「孫文の抜け穴」と呼ばれている。(記者/藍建中、彭純)
14日、八芳園内の壺中庵。(東京=新華社記者/藍建中)
14日、八芳園内の壺中庵。(東京=新華社記者/藍建中)
14日、白山神社境内にある孫文先生座石記念碑の肖像レリーフ。(東京=新華社記者/藍建中)
14日、日比谷松本楼に展示されている宋慶齢ゆかりのピアノ。(東京=新華社記者/彭純)
14日、日比谷松本楼に展示されている宋慶齢ゆかりのピアノ。(東京=新華社記者/藍建中)
14日、日比谷松本楼に展示されている宋慶齢ゆかりのピアノ。(東京=新華社記者/藍建中)
14日、八芳園内の壺中庵。(東京=新華社記者/藍建中)
14日、日比谷松本楼に展示されている宋慶齢ゆかりのピアノ。(東京=新華社記者/藍建中)
14日、白山神社境内にある孫文先生座石。(東京=新華社記者/彭純)
14日、白山神社境内にある孫文先生座石。(東京=新華社記者/藍建中)
14日、八芳園内の壺中庵。(東京=新華社記者/藍建中)
14日、白山神社の社殿。(東京=新華社記者/藍建中)
14日、日比谷公園内の日比谷松本楼。(東京=新華社記者/藍建中)
14日、日比谷公園内の日比谷松本楼。(東京=新華社記者/藍建中)
14日、白山神社の社号標。(東京=新華社記者/藍建中)
14日、日比谷松本楼に展示されている宋慶齢ゆかりのピアノ。(東京=新華社記者/彭純)
14日、日比谷公園内の日比谷松本楼。(東京=新華社記者/藍建中)
14日、八芳園壺中庵のそばに置かれた盆栽。(東京=新華社記者/藍建中)