フィリピン・タルラック州カパスのオドネル収容所跡地に建つオベリスク。周囲には第2次世界大戦中に同収容所で命を落とした人々の名前が刻まれた円形の壁がある。(2月9日撮影、マニラ=新華社記者/張怡晟)
【新華社マニラ5月11日】日本の自衛隊は6日、フィリピン・ルソン島北部パオアイで88式地対艦誘導弾2発を発射した。第2次世界大戦後に日本が国外で攻撃型ミサイルを発射した初の事例となった。
この一幕は歴史の風刺に富み、多くのフィリピン人の心に深く突き刺さった。
80年余り前、日本軍はフィリピンを占領した3年余りの間に組織的な残虐行為に及び、100万人以上のフィリピン人を砲火や虐殺、飢えにより死に追いやった。「東洋の真珠」と呼ばれたマニラは焦土と化した。
そして今、自衛隊は銃砲を携え、フィリピンの地に公然と舞い戻った。扇動と欺瞞(ぎまん)によって災いを南に向けさせ、フィリピンを日本の新型軍国主義の戦略的最前線や軍事的試験場に変えようと企てている。
「フィリピンを断じて帝国主義の軍隊やその兵器の発射台、射撃場にしてはならない」。フィリピンの多くの議員や市民、学者は、日本の侵略の罪行を「忘れてはならない」、歴史の警鐘を「鳴らし続けなければならない」、フィリピン国民は「沈黙してはならない」と声高に訴えている。
マニラ中心部に一つの記念碑がある。1945年のマニラ大虐殺で日本軍に殺害された10万人以上の民間人を追悼する慰霊碑だ。
フィリピン・タルラック州のオドネル収容所跡地に残る日本軍が捕虜の輸送に使った貨車。(2月9日撮影、マニラ=新華社記者/張怡晟)
太平洋戦争が勃発する前、マニラは経済が繁栄し、多様な文化を持つ「東洋の真珠」だったが、日本が占領した3年余りの間に地獄と化した。
41年12月8日、日本軍は真珠湾攻撃の数時間後にフィリピンへ侵攻し、マニラに向けて進撃を開始した。フィリピン当局と米軍は同26日、民間人の犠牲を減らし、文化遺産を守るため、マニラを無防備都市と宣言した。
しかし「無防備」は侵略者の「慈悲」を得ることはなかった。日本軍の爆撃は学校や病院、歴史的建造物を廃墟に変えた。投降した兵士は極めて残忍な方法で処刑され、多くの民間人が戦時法令違反の罪を着せられ、拷問の末に裁判なしで殺害された。
45年2月3日から3月3日まで、マニラでは太平洋戦争で最大規模となる市街戦が行われた。進撃を続ける連合軍を前に、追い詰められた獣のごとく抵抗する日本軍は市内の民間人に対して大規模な殺りくを行い、10万人以上が日本軍の銃剣や銃口の下で命を落とし、生きたまま焼き殺される者さえいた。
マニラ戦の終結時、市内には死者を埋めた穴が一面に広がり、600以上の区画が破壊され、数世紀にわたり積み重ねられてきた文化と建築の遺産が灰じんに帰した。従軍記者のヘンリー・キースは、マニラが「悪夢に満ちた恐怖の都市」に化したと記している。
マニラのフィリピン国立美術館で、第2次世界大戦をテーマに日本軍の暴行を描いた絵画を見る人たち。(2025年6月28日撮影、マニラ=新華社記者/張怡晟)
マニラから100キロ余り離れたルソン島中部タルラック州カパスのオドネル収容所跡には、3万本余りの木々が静かにたたずみ、ここで命を落とした数万人の連合軍兵士を象徴している。
42年4月、日本軍はフィリピンにおいて太平洋戦線で最も悪名高い犯罪行為の一つ「バターン死の行進」を引き起こした。これは南京大虐殺、「死の鉄道」と呼ばれたタイとミャンマーを結ぶ泰緬(たいめん)鉄道の建設と並び「極東三大戦争犯罪」と呼ばれる。
当時、バターン半島で日本軍に降伏し米国とフィリピンの連合軍の捕虜約7万8千人は、酷暑の中を半島南部から120キロ離れたオドネル収容所に向けて徒歩で行進させられた。道中、食料はほとんど与えられず、飲み水もなく、医療などまったく受けられなかった。
途中のサンフェルナンドからは鉄道輸送となったが、極度に衰弱し、狭く蒸し暑い貨車に詰め込まれた捕虜は、混雑や酸欠、高温の中で窒息死する者が相次いだ。
死の行進の生存者で、後に東京裁判のフィリピン判事を務めたデルフィン・ハラニーリャ氏の回想によると、行進の途中で体力が尽きて倒れた者はしばしば激しい暴行を受け、歩けなくなった者は殺害され、逃亡を試みた者は捕らえられた後すぐに処刑されたという。
フィリピン・タルラック州のオドネル収容所跡にある、第2次世界大戦中に同収容所で命を落とした捕虜の名前が刻まれた壁。(2月9日撮影、マニラ=新華社記者/張怡晟)
歴史学者の推計では、行進中の死者は1万5千人に上り、その後の収容生活で命を落とした者は数万人に達したとされる。
フィリピン国立美術館の第2次世界大戦をテーマにした展示室では、20点余りの絵画が当時の日本軍の残虐行為を訴えている。殺害された民間人、骨と皮ばかりに痩せ衰えた捕虜、焦土と化した田畑など、一つ一つの場面が日本軍の野蛮な侵略の下で繰り広げられた地獄の様相を映し出し、日本のいわゆる「大東亜共栄」の嘘を暴いている。
日本軍はフィリピン占領期間中、残酷な植民地収奪と高圧的な統治を推し進めた。食料や鉱物資源の略奪、労働力を強制徴発は各地で物資の欠乏を招き、飢餓が広がった。
植民地教育を進め、日本語による同化教育を強制し、現地の学校を大量に閉鎖し、学校を奴隷化教育の道具として利用した。
慰安婦を強制徴用し、現地の女性を組織的かつ制度的に性奴隷とした。概算統計によると、42~45年の間にフィリピン人女性約千人が慰安婦として強制徴用され、非人道的に踏みにじられた。
マニラ市庁舎の時計塔博物館に足を踏み入れると、展示室の中央で巨大な爆弾の模型が地面に対して垂直に吊り下げられている。マニラがかつて受けた戦火の惨禍を象徴しており、人々に警戒を促す歴史の警鐘に見える。
歴史の警鐘は今、現実の中でも再び鳴り響いている。
フィリピン・バターン州に立つ「バターン死の行進」ゼロキロ記念碑。(2月9日撮影、マニラ=新華社記者/張怡晟)
今年4月20日から5月8日にかけて行われた米国・フィリピン合同軍事演習「バリカタン」で、日本の自衛隊はこれまでの「視察」方式を改め、第2次世界大戦後初めて大規模な戦闘部隊を派遣して実戦演習に加わり、国外で初めて攻撃型ミサイルを発射した。不安をかき立てる二つの「初めて」と、日本の一連の再軍事化の動きは、フィリピン国民の骨身に染みた歴史の記憶を再び呼び覚ました。
軍事演習が始まった日、多くの市民がフィリピン軍本部の外で抗議活動を行った。参加者の1人は「第2次世界大戦中、日本のファシスト侵略者は無数のフィリピン人を殺害した。フィリピン国民は日本の戦闘部隊が再びこの地を踏むことを歓迎しない」と語った。
多くのフィリピン人は、かつての侵略者がフィリピンを軍備拡張や地域に災いをもたらすための「前線陣地」にしようと企てていることを「フィリピン国民への侮辱」と見ており「目をくらまされてはならない」と考えている。
フィリピンのシンクタンク「アジア世紀」戦略研究所のハーマン・ラウレル所長は「日本の戦闘部隊がフィリピン本土に戻ってくることは、世界反ファシズム戦争の勝利の成果に対する公然たる挑戦だ」と指摘。「日本の新型軍国主義はアジア太平洋地域の平和と安定、繁栄にとって深刻な脅威となる。日本がかつてフィリピンで犯した数々の残虐行為を決して忘れてはならない」と語った。