魏晋南北朝

Jp.xinhuanet.com | 発表時間 2017-07-10 17:52:42 | 編集: 王珊宁
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魏晋時期とは220589年を指す。紀元2世紀末、後漢の統治が衰微したのにつれ、中国史は比較的長期間の分裂期に入った。最初は魏、蜀、呉の三国が鼎立(189-265年)したが、後に西晋により統一された。しかし、西晋は短期間しか存続できず(265316年)、その後、再び分裂に入った。その後、江南では、西晋の皇族が東晋(317420年)を建てたが、北方は民族の混戦に陥り、数多くの政権が続出し、概して「十六国」と称される。

 この時期、南方の経済は比較的大きな発展を成し遂げた。西部、北部の各少数民族が相次いで内地に移転し、各民族間の移動と雑居は融合と交流を促した。文化面では、玄学(老荘の学問)が盛んで、仏教、道教が相互に戦いながらも拡大と発展を遂げた。時の統治者は、一般的に仏教を保護していた。文学芸術面では、建安七子、陶淵明などの詩文、王羲之などの書、顧愷之などの絵画、敦煌石窟などの石窟芸術がいずれも不朽の名作である。

科学技術面では、祖沖之が世界で円周率を小数点以下7桁まで算出し、賈思きょうの『斉民要術』が世界農学史上の大著として知られている。

南北朝(420589年)は南朝と北朝との併称である。北朝では、まず北魏が建立されたが、後に東魏と西魏に分裂。その後、東魏は北斉に、西魏は北周にそれぞれとって代わられ、その後、北斉は北周に滅ぼされた。一方、南朝の流れは比較的単純で、相次いで宋、斉、梁、陳へと政権が交代した。

南北朝時代の経済は南方に偏っていた。中原の人口が絶えず戦乱を避け、南へ移り住んだことは、江南の労働力を増やしただけでなく、先進的な技術をも伝来し、これにより、現地の経済発展は大幅に促され、揚州周辺は南朝では経済の発達した地区となった。

文化面では、最も際立ったものは玄学思想の発展で、乱世は思想の自由に肥沃な土壌を提供し、文学ではとりわけ詩歌がすばらしいものであった。

この時期は対外交流が非常に盛んに行われ、その足跡は東では日本と朝鮮、西では中央アジアや大秦(ローマ)、さらに東南アジアにまで及んでいた。

東晋の滅びた後の南北朝は中国の歴史上において、南北に分裂した数少ない時期の一つである。その形成は経済の発展を停滞させた一方、外族による中原地区への統治で形成された黄河流域の民族大融合も前例のないものだった。この条件の下で、中国北方の諸族は徐々に漢族に同化され、最終的には同一民族になった。故に、南北朝の分裂は民族の統一が加速される上で、極めて重要な役割を果たし、中華民族の発展過程において不可欠なたいへん重要なプロセスだったと言える。

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