西周と春秋戦国

Jp.xinhuanet.com | 発表時間 2017-07-10 17:52:42 | 編集: 王珊宁
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  夏、商に次ぐ中国古代三番目の王朝は周である。周は約、紀元前1027年に建立され、紀元前256年に秦に滅ぼされるまで、全部で770年余りも続いた。周は国都の東方移転を境に西周と東周に分けられる。前期は西周にあたり、後期の東周はさらに春秋、戦国というの二段階に分けられる。

西周は約紀元前1027年-紀元前771年までで、約257年間続いた。周代初の天子である周武王は国都を鎬(後の長安の北西部)に移転した後、連合軍を率いて、大挙して商に攻め入り、周王朝を建てた。幼い周成王が王位を継ぎ、叔父の周公・旦が摂政をしていた。周公は内部を安定させた後、大軍を率いて東征し、反乱を平定した。周公の主宰により、その後一連の勝利を固める重要な措置が講じられた。周の成王、康王が在位していた期間は、政治が安定して、平和な世の中が続き、後世から「成康の治」とたたえられた 

周朝の国家制度や法律体系には鮮明な特色があり、井田制、宗法制、国野制と礼楽がそのもっとも重要なものだった。

紀元前770年-紀元前476年は春秋時期。経済の発展と人口の増加に伴い、大国同士は覇権をめぐり、激しい戦いが起き、社会の状況は大きく変わった。農業生産において、鉄製農具が現れ、牛による耕作方式が徐々に普及し、水利事業が発達し、農作物の生産高が上昇した。春秋は西周の伝統的政治、社会秩序が徐々に解体する過渡期だった。

中国初の思想家であり、偉大な教育者である孔子は、春秋後期の生まれである。孔子はこれまでの文化、思想を総括する上で、春秋後期の激動する社会情勢に身をおきながらも、倫理道徳、社会と政治問題をめぐり、一連の独自の理論と観点を打ちたて、古代の儒家学派を創設した。

戦国(紀元前403-紀元前221年)は中国では、東周列国後に新たに迎えた諸侯が割拠し、覇権を争う時代だった。戦国は春秋とは明確な境線がなく、今日の習慣に従い、紀元前403年、「三家分晋」により趙、韓、魏の三国に分かれた時から始まり、紀元前221年、秦が六国を統一する前までの期間を戦国時代と称することにする。

戦国時代に入ると、中国の構図に変化が現れた。数多くの中小諸侯の国が併呑され、生き残った秦、楚、燕、韓、趙、魏、斉という七国は戦国時代の主な諸侯国家となった。戦国時代、各国は相次いで改革に乗り出し、中でも、最も徹底したもので、影響力の大きかったものは秦国の「商鞅(ショウオウ)の変法」だった。

一方、戦国時代の中国は連年、戦が絶えなかったが、古代文化の発展はこれにより途絶えることはなかった。当時の社会で、新たな士人階層が現れ、学術、文化、知識を身につけた彼らの活躍は、学術文化の繁栄を一層推し進めた。この間、中国古代の思想文化は、有史以来初の高潮期を迎えた。その中で、孔子、孟子を代表とした儒家、老子、荘子、列子を代表とした道家、韓非子を代表とした法家、墨子を代表とした墨家などの理論は後世の高い評価を受けた。これらの学派の出現は、戦国の思想界に「百家斉放、百家争鳴」の様相を呈させた。これらの理論は当時の政治、経済を促進させる役割を果たしただけでなく、その深遠な影響力は今日にまで継続しており、中国思想史の不滅の一ページとなった。

紀元前230年、秦王エイ政は全国を統一する征途を始め、その後、九年の歳月をかけ、秦は相次いで六国を滅ぼし、紀元前221年に全国を統一した。これをもって、600年近く続いた中国の分裂状況が打ち切られた。

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