歴史記録のある最古の王朝―商

Jp.xinhuanet.com | 発表時間 2017-07-10 17:52:42 | 編集: 王珊宁
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  中国の学術界では、夏が中国最古の王朝とされているが、夏朝に関する歴史資料のほとんどは、後世の文献での述懐に過ぎず、考古学的な裏づけは今日に至っても見つかっていない。商朝こそ、古代中国で確実な考古学資料を得られた最古の王朝だった。

  商朝は約、紀元前16世紀に建立され、紀元前11世紀に滅ぼされ、約600年間続いた。商朝は前期、数回にわたり遷都し、最後は殷(今、河南省安陽付近)に落ち着いた。考古学の研究結果では、商朝早期、中国文明はすでに相当高いレベルにまで発展し、甲骨文字と青銅器文化がその主な特徴である。

  甲骨文字は偶然のきっかけで発見された。20世紀初頭、当時の河南省安陽北西部にある小屯村の農民は、偶然に拾ってきた亀甲と獣の骨を薬剤にして売った。ある学者がそれを入手した後、その上に古代文字が彫られていることが判明し、その後、甲骨を探し出す作業に力を入れた。その後、中国の古文字学者はこれらの亀甲と獣骨に刻まれた文字は、商朝の文字だと確定し、これをもって、小屯村がすなわち、古書で言及された商朝の都の遺跡・殷墟だったと断定した。

 20世紀の中国では、殷墟の発見と発掘がもっとも重要な考古学的発見だった。1928年、初めての発掘作業が行われて以来、この村で甲骨文字、青銅器を含めた貴重文化財が数多く出土された。甲骨文字は、亀甲と獣の骨に彫られた古代の文字として知られている。商代では、国王はいかなる行動をする前にも、必ず占いをしていた。甲骨はつまり、占いに使われた道具だった。甲骨は使用される前に、加工をしなければならなかった。まず、甲骨にくっついていた血と肉を綺麗にとる。次に、それを切ったり削ったりして、平らに磨き上げる。さらに、亀甲の裏、もしくは獣骨の裏側で刀などの道具を用い、秩序良く凹凸をつけておく。占い人(巫師)は自分の苗字や、占う日、聞きたい質問などをすべて甲骨に彫刻しておく。占う時は、甲骨裏に彫られた凹凸を火であぶり、それで得られた亀裂を「兆」と呼んでいた。巫師は亀裂の模様を分析し、占いの結果を得る。そして、占いが的中したの結果も甲骨に彫刻される。的中した場合、これら占いの祝詞の彫られた甲骨が政府の記録文書として保存される。

  現在、殷墟から全部で甲骨16万枚余りが出土している。完全な状態で保存されたものもあれば、文字が記載していない破片もあった。統計によれば、これらの甲骨には全部で4000以上の文字が彫られていた。その中、学者が考証、研究をした文字は全部で3000余りあったが、この中では、学者が一致した解釈を持てた文字は1000字余りだった。残りの文字は解読できないものか、学者により意見の食い違いが甚だしいものだった。しかし、そういうことがあるにしても、この1000余りの文字は、人々に商朝の政治、経済、文化など各方面のことを知る手がかりを提供している。甲骨文字に関する最初の専門的な著述は1913年に出版された劉鄂(ガク)の『鉄雲蔵亀』である。中国の有名な歴史学者と文学者の郭沫若が1929年に出版した『甲骨文字研究』もこの分野のたいへん重要な専門書である。現在では、北京大学のキュウ・錫圭教授と中国歴史研究所の李学勤教授が、甲骨文字研究における権威である。

  甲骨文字と肩を並べて、青銅器も商朝の最も代表的な器具である。商朝の青銅器鋳造はすでに相当高いレベルに達していた。殷墟で発掘された青銅器は、すでに数千点に上っている。中でも、1939年、殷墟から出土された司母戊大方鼎は重さ875キログラム、高さ133センチ、長さ110センチ、幅78センチ、形が雄大で、中国古代青銅器文化の最高峰時代の代表作とされている。

  考古学の発掘及び学術研究でも実証されたように、商朝ではすでに国家が誕生し、私有制も基本的に確立されていた。中国の歴史は商朝から文明時代に入った。

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